無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

お父ちゃんお父さんkeep tryin'

昨日は光の照實バースデイを祝うツイートがあった。何気ない文章だったがメンションを見る限り頗る好評で、いやそこまでいい事言ってる訳でもないでしょう、と言おうと思ったがいろんなツイートが入り乱れるひとりひとりのフレンズタイムラインの中にふとあの一文が飛び込んできたら、そりゃ心が洗われるだろうなぁ、と考え直した。時折ニュースをふりまき、余計な事は呟かない。結果的にフォロワーを最も効率的に増やす方法論を選択している。本人はそうしているつもりは全くないだろうになぁ。彼女はどこまでも人を魅了する事に呪われているのだろうか。

翻って、今回の文章を読み直してみると、内容のさりげなさとは共に読者として示唆の恩恵を享受できる技術的な美点がある。照實さんを指す言葉がお父ちゃんとお父さんの2つがあるのだ。

使い分け方は単純明快で、お父ちゃんは読者に対して語りかけている文章で使われているのに対し(『今日はうちのお父ちゃんの誕生日でございました』)、お父さんは照實さんに向けてお祝いの一言を云う為に(『誕生日おめでとうお父さん!』)使われているのだ。ちょっとした呼称の変化で誰に語りかけているのかを瞬時に伝える、というツイッターの限られた140字に情報を盛り込む為の粋な処方箋である。

圭子さんに対しても、『ちなみに5日は母の誕生日でございました』という言い方をしている為、母という呼び方は読者向けのものだ。そして最後の一文は『ママとお父さんがこの世に生まれて出会ったことにすごく感謝してます』となっている。照實さんをお父さんと呼んでいる事からこれは当人たちに向けられた言葉であるからして、ママとは光が圭子さんに呼びかける時の名称であり、この文全体が両親に向けての謝辞である事が読者に自然に伝わる仕掛けとなっている。ここがお父ちゃんと母だったら読者に語りかけている事になり、ちょっとニュアンスが変わってくる。こういう僅かな気遣いで読者に与える印象は地味に、しかし確実に大きく変わる。本当に示唆に富む文章である。

しかし、圭子さんをママ、照實さんをお父さんと呼ぶのは、光がそれぞれと親密だった時期や、その時の居住が関係しているのだろうか。とすると幼少の頃、或いはNY在住時は圭子さんと親密で、ある程度成長してから、或いは日本在住時には照實さんと、なんて推理も出来そうだがまぁそこらへんは野暮になりそうなので今回は突っ込まないことにするか。改めて、お誕生日おめでとうございました、照實さん。こんな可愛い娘に祝われてよかったね☆