無意識日記々

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voice marathon

12年のキャリアの中でライブ本数が少ない事が不満のタネとなりがちな光だが、これにはよい面もある。所謂"勤続疲労"が、彼女の喉にはあまりないのである。

UU06で喉が危機にあった事は周知の事実だが、その時の後遺症は殆どないだろうことはIn The FleshとWILD LIFEで証明されたといっていいだろう。昔と同じ声質でない事を嘆く向きもあるかもしれないが、身の回りで15歳の時と27歳の時で同じ声をしている女性が居るか否か、と問われればそれも無理な相談だとわかるだろう。

若い時の喉の酷使は何十年単位で響く。裏を返せばそれは、40代50代になってから喉が"復活"するシンガーが存在する事を意味するのだが、光の喉はまだまだ瑞々しいままだ。誰がBLUEをスタジオバージョン通りに歌うと思ったか。これ1曲でステージを降りるのでもない、他に20曲以上歌わねばならなかったのだから。

ライブアーティストに求められるのは、そう、スタミナである。数曲だけなら素人でもHigh&Loudに歌い上げる事も出来ようが、それを一晩に2時間、更にそれを数ヶ月で何十回にも及ぶ回数疲労しなければならない。これが出来てこそプロである。

光の場合、ツアーはおろか、殆どライブの経験もないままレコードデビューしてしまった。これが何を意味するかといえばつまり、1stアルバムで披露した歌唱法がツアーに適応・適合したものかどうかわからなかったという事である。ボヘミアンサマー2000の各公演の出来不出来について私は詳しく知らないが、ツアーを通過していない歌唱法で押し通すのは随分辛かったのではないかと想像する。

一晩で燃え尽きるような、先に予定のないライブであれば翌日に声が出なくなっても確かに構わないかもしれない。しかし、2010年12月8日9日の光のアプローチは、喉に過度の負担をかけているようには思えなかった。あのままツアーに出ても、あのクオリティで突っ走れるかもしれない。それだけの余力があったようにみえる。余力というと違うか、喉を破壊する事で得られるパフォーマンスに縋らなくても聴衆を納得させられる歌唱を披露できたのだ。

これは、強い。短期の疾病は兎も角、長期の勤続疲労を通過する事なしにこの"長丁場のツアーを歌い切れる歌唱法"を会得したのであれば、ライブアーティストとしての宇多田ヒカルの寿命は存外に長いものとなるかもしれない。あるクラシックの歌手は80歳を過ぎて「歌とは何かがわかってきた」と言ったらしいが、そこまで行かなくても、じっくり何十年もかけてその喉を、歌を、ワインのように熟成させていって貰いたい。その時その場所でしか聞けない歌を聴かせ続けながら到達していく領域には、一体どんな景色が待っているのか。その景色を一緒に味わう為にも、みんな長生きしなくっちゃねぇ。