無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

Wild Idea, Wild Life

私には誰にも自慢できない特技がひとつある。頭の中で、歌手にその人が歌った事のない歌を歌わせてそれを楽しむという技だ。なるほど、ただの妄想なので人に自慢しようにも全く方法がない。これが聴覚でなく視覚の「もしもシリーズ」なら絵を描いてみせればいいんだけどね。例えば「もし鳥山明中川翔子を描いたら」とか。確かに、もし自分が歌えるんなら自分で歌って聴かせられればいいんだけどそんな喉持ってないから無理なんだわさ。あー残念。書いてて虚しいや。

さっきも、ブルース・デイッキンソンがもしBlack Sabbathの"Heaven And Hell"を歌ったら、というのを妄想してうわ超かっけえそこそういう風に歌うんだやっぱHooHooのとこはYeahYeahって歌うんだねとひとりで(寂しく危なく)盛り上がってたんだが、はたと思いついて「よし、光にボヘミアンラプソディを歌わせてみよう」と妄想を始めた。

これが上手い。とてつもなく上手い。本家のフレディより更にぐっとエモーショナルだ。おぉ〜「Mama〜♪」ってそう歌うんだ〜いや「CarryOn〜CarryOn〜♪」のとこたまんないねぇ、とまぁいつも通り細部に穿って楽しんでいたのだが、こいつ歌ってる途中ですぐ吹き出しやがる。なんか真面目に歌う事をやめて笑い出しちゃって喋るような歌い方になってしまうのだ。なんだよ〜もっと聴かせろよ〜。

妄想ってそのまま文字にしちゃうと危ないね。それはさておき。

なんでこんなんなっちゃうんだろうと考えて幾つか気がついた。私は、光の歌声をシミュレートするより光の喋り声をシミュレートする方が遙かに得意なのだ。何かの曲を新しく歌わせるには若干の集中力が必要だが、喋らせるのは頭の中のボタンをひとつ押すだけ。どんなセリフだって身振り手振りつきで喋らせられる。しかも、1999年の光、2000年の光、2001年の光、、、と各年代ごとのクセを忠実に再現してくれる。更に「18歳の時に実際に光が言ったセリフをもし24歳の光が言おうとしたら」みたいなマニアック飛び越してアクロバティックなシミュレーションまで出来てしまう。いや正確さの検証は不可能なのでしてしまう、と言った方がいいか。

その"それっぽさ"の度合いは、何年も昔に私が訳したメッセのヒカ語訳を読んだ事のある人なら何となく想像がつくのではないか。当時は結構集中力を要したが、今はそんなでもない。成長したのだろうか私。言っててやっぱり虚しいけれど。

ところがところが(ところてんじゃないんだ)。これが歌だとそこまで精度よく妄想できないのである。あれだけナチュラルに喋っていた光が、いざ歌い出すとなるとなんとなくわざとらしくって、歌ってる光がすぐに吹き出してしまうのだ。ボヘミアンラプソディ長い曲だからこれではいけない。

光の喋りを年代ごとにシミュレートできるのに歌ができない理由は何か。どうやら光の歌は、クセというか流れで構成されていないらしいのだ。喋りというのは思考の流れの反映だから、私が光の喋りを妄想する時に押すボタンは喉ではなく脳である。私は光の脳をシミュレートしているのだ。

しかし、光の曲ごとのパフォーマンスというのは考え抜かれ選び抜かれた上で醸造された歌唱なのだ。マイケルジャクソンの歌唱を絶賛していたメッセを想起。光は、とても細かい所まで喉の、声の使い方を"観て"いる。その観察力を応用して、各楽曲ごとの歌唱アプローチを選択しているのだ。

その為、その年の歌い方のクセや流れという"全体の傾向"が歌唱に表れない。一般性を抽出できないのだ。思考の流れは真似できても、思考の蓄積の結晶は真似できない。実際の生歌を歌う光も、自分で歌ったスタジオバージョンのチェックポイントの多さに毎回辟易している筈だ。そんな事も、光が生歌に難儀してきた理由のひとつになっている気がする。

それにしても、だとすると、Wild Lifeの歌唱の精度はあらためてとんでもないレヴェルだと思い知らされるよ。唖然。