無意識日記々

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時代々々のメロディ

メロディの時代性というのは、恐らくその時間をリアルタイムに生きているうちは気がつかないのだろうけども、かなりの場合色濃くひとつひとつの楽曲に反映されている。

例えば、ひとくちにクラシックと呼ばれている音楽も、バロック、古典派、ロマン派で明らかにメロディの質が違う。ロックやポップスの場合でも確実に70年代風、80年代風という形容が成り立つ。

それぞれの違いが如何にして生まれるのか、分析は困難だろうが、ひとつにはリスナーの層とその嗜好が大きく影響しているように思われる。送り手と受け手、どちらが先かは鶏と卵ではあるものの、やはりその時代の聴衆にウケないと、そもそも21世紀の我々の耳に届かないのだから、その時代のどんな聴衆が何を好んでいたかは大きい。

例えば、古典派のメロディの場合楽しげであっても悲しげであってもどこか浮ついていて生活感がない。これは、当時のクラシック音楽(当時は勿論"classic"ではなかったろうが)が主に富裕層を相手にしていた事と結びついているのではと推測される。

これがロマン派になると、土着的なフォークのメロディを取り入れるなどして生きる切実さを感じさせるようになる。少しずつこの時代はクラシックが庶民レベルにまで浸透してきていたのか。また、何か未知のものがやってくる"予感"に満ちた旋律が多いのも特徴だ。激動の20世紀を前にした時代背景がぐっと効いてくる。

ロック・ポップスでもおおざっぱに享楽の80年代、陰鬱の90年代という風にやはりその時々の時代背景を反映した曲調、メロディが市場の大きな所に居座っていた。バブル経済や東西冷戦の崩壊など、人々の暮らしにまで影響するような出来事が原因となったと推測するのは容易である。

さて、では00年代のメロディとは何だったのかと考えても、全体像や傾向がさっぱり浮かんできやしない。これは、僕らがまだまだ00年代と距離を取れていない、最近過ぎるというのもあるだろうし、そもそも"00年代"って何て読めばいいかこの10年で結局決まらなかったというのもあるだろう。(?)

でも、果たして00年代は、近すぎて色がみえないのか、はたまた本当に色がないのか。ヒカルの曲を聴くと、1stは確かに当時の流行だったR&B路線の編曲が多かったが、それはヒカルが自分で編曲していなかったからでもあるし、同じことはUtaDAの2ndにもいえる(この点においてこの2枚は性質がよく似ているし、Automatic Part2を作りたくなった気持ちもわかる気がする)。

だが全体的には、ヒカルのメロディ自体は、彼女が活躍し続けた00年代の象徴として扱われてはいないし、また他のミュージシャンにそういった面で影響を与えたという感触も薄い。どちらかといえば、日本に限っていえば浜崎あゆみの方が"この時代のメロディ"の象徴を担っていた感じ。ロックだとLinkin Parkあたりかな。まぁ、上述したようにまだまだこの10年の空気を引きずっている中なので客観視は難しいのだけれど。

このままいけば、ヒカルが何年後かに復帰したとしても"メロディが00年代風で古臭い"と謗られる虞は少なそうである。まぁ、私としては00年代は"宇多田光との10年"であったし、21世紀は"宇多田光の世紀"だったので、そもそも古びれるとかいう不安は、ないのだけれどね。