無意識日記々

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TPPその2

光の音楽における言葉へのアプローチは多岐に渡っている。歌詞が日本語のみの曲、歌詞が英語のみの曲、日本語に英語が混ざったもの、英語に日本語が差し挟まれているもの、日本語の間にフランス語でナレーションがあるもの、フランス語から日本語にシフトするもの、日本語から英語へ、英語から日本語へとシフトするもの。まだあるかな? これだけのバリエーションがある。

しかも、今あげた例はどれも完成品の話である。創作過程まで勘案すれば、元々英語で歌詞をあてていたものが日本語詞中心に変化したもの、日本語曲として発表したものに英語の歌詞をつけなおしたもの、或いはその逆、更には一旦英語で作っておいてまず日本語詞で発表し後に英語でもう一度発表する、など実に複雑多岐に渡る。私も把握しきれていない。

更にEXODUSでは、自身の書いた歌詞の対訳も一曲で手掛けている。その事に関して更に重要なのは、対訳をひとに任せた事である。日本語と英語の間を自由に行き来する人が―それはまたそれぞれの言語の不自由さを痛い程よく知っているという事でもあるのだが―、何が出来るか何をするかという点だけでなく、これはしなくてもいいしないほうがいいと判断してひとに創作物提示方法の一部を譲るのだからその冷静な判断力には恐れ入る。通常なら対訳は"できないから人に任せる"のだ。我の強いアーティストが、自分に能力と時間があれば対訳も手掛けたいと考えるのは何ら不自然ではない。なのにそこで一歩引けるのだからなかなか21歳でそこまででけまへん。

それにしても"対訳"というのは不思議な存在である。あれを眺めながら歌を聴いていても、そもそも今どこを歌っているのか結構わからなくなる。英語の歌詞をみて、それから日本語訳を見直して、なんてやってると落ち着いて音楽を聴いていられなくなる。本末転倒である。

対訳を掲載する側も、深く考えていないのだろうか、英語と日本語を左右に配するレイアウトにしておいてくれればちょっとはましなのに(そういうブックレットも勿論存在しますが)。

どうも、歌詞対訳を掲載するブックレットというものの作品性を軽視する風潮がありはしないか。昔のアナログレコードは、ジャケットを開いて椅子に座ると、雑誌や絵本を読んでるみたいでサマになった。音楽を聴く時の"かっこうがついた"のである。今のCDのブックレットはちっちゃすぎて、寝っころがりながら眺める位しか似合わない。

これが、音楽・特に歌において"翻訳"を載せる時のネックなのである。映画であれば字幕や吹き替え、漫画であれば写植の差し替えや左右反転(縦書きを横書きにするときのかなり強引な方法。今でもあるのだろうか?)などをすればよい。しかし音楽の場合は?

声楽をフィーチャーしたクラシックのコンサートに行った事のある方なら知っているだろうが、あそこではパンフレットに歌詞と対訳が載っていてそれを眺めながら公演を楽しむ事が出来る。しかしこれがオペラとなると舞台上の視覚的効果も重要となる為ずっと俯いている訳にはいかない。日本語訳の歌の公演になったり、或いはプロンプタを用いて画面に対訳を表示させるなど様々な工夫が必要になってくる。

こうなると、純粋な"ひとつの作品"としての枠組みは、翻訳が絡んでくる場合は結構あやふやに、あやうくなってくる。果たして、翻訳が絡んできた場合、我々はアーティストの望む形でしっかり作品を味わう事が出来ているのだろうか?

こういう時は、海路のあの一節を思い出す。
『額縁を選ぶのは他人』

最初は、額縁の"デザイン"にばかり気をとられ、"どんな"額縁をアーティストの描いた絵に他人が掛けるのかを考えていたが、考えてみると、額縁には"大きさ"というファクターもあるのだ。即ち、どこからどこまでを"絵"(作品)として見なすか、というレベルの話が立ち上がってくる。

果たして、他人が額縁のデザインだけでなく大きさにも口を挟む事になっても、光は平気なのだろうか。話が広がってきたのでまた次回に続く。次の更新が次回かどうかはわからないけど。