無意識日記々

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変な訳! でも、これでいいのだ。

『Find Love』での「作詞者本人ならではな大胆過ぎる直訳」のひとつに次の一文がある。

『Not gonna park my desire』

ヒカルはこれをこう訳した。

『欲求を駐車するつもりはない』

……正直、日本語として変! 「欲求を駐車する」てね。最も、なんとなく意味は伝わる。なんとなくね。

うむ、普通に訳すなら文意を汲んで

「欲求にブレーキを掛けて止める気は無い」

とでもするところだろう。恐らくだが、ヒカルの意図として、意味が通じそうだったら出来るだけ英語の歌詞が持っているニュアンスも伝わるようにしたい、のだ。つまり、日本語で意訳し過ぎることで、英語の時点でもっているウィット感を毀損するのは得策ではない、と。ジョークを説明しすぎると笑えなくなる、というのと同じように、少し洒落た(?)言い回しもまた説明のし過ぎはよくない、と。

これに近い感触で、これまた大胆に訳されたのが、今度は『Face My Fears (English Version)』の、次の一節である。

『Space, this is what I choose』

これをヒカルはこう訳した。

『空間、これは私の選んだこと』

ド直球の直訳である。20年前の機械翻訳にかけてもこう訳すであろうという一語の隙も無い逐語訳だ。

だが、これでいいのだ。日本語でこの対訳を目で読んだ時に感じる「どういう意味だよ!?」という感想は、そのまま英語で初めてこの歌詞を耳にした時の「どういう意味だよ!?」な感想そのままだからだ。

つまりヒカルにとって、対訳によって「歌詞の意味がわかる」事は必ずしも必須の目的ではないということだ。

とはいえ、「いや、英語の歌詞って英語がわからない私たちが聞いても意味がわからないから日本語を使って私たちに歌詞の文章の意味を伝えてるんでしょ!?」と真っ当なツッコミも入れたくなる。しかし、英語が聴き取れる人であっても、英語の歌詞って意味がわかるとは限らない。うちらが日本語の歌を聴いてる時でもそうじゃない? 「白のパンダをどれでも全部並べて」ってなんだそれ?ってならん??? …あぃすまん、出した例が極端だなこれ。

ともかく、ヒカルはただ歌詞の意味を伝えるだけではなく、英語の歌詞を聴いた時に感じるある程度の「わからなさ」もまた、対訳によって伝えようとしているのではないか、と読めてくる。なので、

『欲求を駐車するつもりはない』

を読んだ時に感じる「ん?ブレーキをかけて止めることはない、とかそういうこと?」みたいな疑問感や、

『空間、これは私が選んだこと』

を読んだ時に感じる「え、なんのこと!?」といった当惑感。それらは、ヒカルの表現したかったこと、我々に与えたかった感覚そのものなので、それで何の問題もない。どころかヒカルからしたら「ミッション・コンプリート!」「目的達成!」なことだと思われる。そう、何の問題もない。これでいいのだ。