こんなのでこうかがあるのかな?

宇多田ヒカルの言葉』を読む時に、敢えてメロディーを"消して"読んでいる。折角文字だけの存在になってみたのだから、平板なただの"詩"として読んでみる。すると「あぁ、こういう内容の歌だったのか」と、意味を取り違えていた訳でもないのに「合点する感覚」が生まれてくる。体験として非常に興味深い。


そこらへんを突っ込んで考える前に、日本語による歌詞の特徴について捉えておこう。

比較として英語を思い浮かべる。英語を文字で表す時、覚えなければならないのは各種記号を除けばアルファベットの26文字だけ。一方日本語はひらがな50音にカタカナ50音。更に常用漢字だけでも1000字は覚えなければならない。桁が2つも違う。

従って、英語には「表意文字」がない。表音文字のみだ。即ち、文字とはそのまま音である。文字の連なりは音の連なりでありそれが単語を、文章を形成して初めて意味を成す。もっと言えば、アルファベットをただ並べただけではただの音にしかならない。

日本語には漢字という表意文字がある。勿論発音も指定されるのだがそれ以上に漢字はそのままで意味を、イメージを持つ。字を見ただけで日本語人はちょっと引っ張られるのだ。

実際、日本語には同音異義語が山程ある。「こうか」という言葉は「高価・降下・効果・硬化・考課・硬貨・校歌・高架・降嫁・後架・功科・功過」と12もあった。歴史上何故こうなったのかは専門家に訊かないと私も知らないのだが、漢字のような表意文字が必要になるだろう言語であった事は容易に想像がつく。書き文字のなかった時代は、そもそもこんなに漢語がなかったのかもしれないが。

つまり、日本語人は、話し言葉であってもある程度、朧気ながらかもしれないが漢字を思い浮かべている。でないと、こんなに沢山ある同音異義語に対処しきれない。もっと言えば、話し言葉で例えば上記の「こうか」という音を文の途中に挟まれても、発音は補助というか意味を呼び出す為の過程の一つに過ぎない、という言い方も出来ようか。文字がそのまま発音を表し、発音がそのままダイレクトに意味を運んでくる、表音文字しかない言語(例えば英語)とは、書き文字やその指す発音と文の意味の関係が根本的に異なるのである。

この根本的な差異が、表意文字も持つ日本語による歌詞と、表音文字しか持たない(例えば)英語の歌詞の間にこれまた根本的な差異を生む、という話から又次回。