無意識日記々

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イントネーション重視の話

ちょいと道草を食う。「アクセント」と「イントネーション」についてのお話。

この2つの違いを踏まえておくことは重要である。ひとまず日本語の発音の基準・権威といえばNHKということで該当サイトから引用させてうただく。

「単語レベルの音の高低をアクセントといい、文章全体の高低の調子をイントネーションといって、同じ音の高低を分けています。」

https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/uraomote/027.html

簡潔に纏まってるな。単語の抑揚がアクセントで、文章の抑揚がイントネーションなのだ。

日本語はかなりの部分でイントネーション重視である。単純に、日常会話で「イントネーション」という言葉を使う頻度の方が「アクセント」という言葉を使う頻度よりも随分と多い。

自分は関西のテレビも見て育った人間だが、お笑い芸人が「イントネーションがおかしい」とツッコむ機会は多かったように思うが「アクセントがおかしい」とツッコむのを見る機会は余り無かった。寧ろ、アクセントというべき場面ですらイントネーションと呼んでいた気がする。それだけ、人に話し言葉で伝えるときにイントネーション、即ち文章全体の抑揚が重要視されていたのだろう。ニュースを読むような場面のみならず、日常会話の延長線上でボケとツッコミの遣り取りをするような場面であっても、だ。

一方、アクセントの方はといえば、従来から「アクセントの平板化」が取り沙汰されてきたように、寧ろ無くす方向にすら流れてたきようにもみえる。重視や軽視を飛び越えて無視である。

これが英語の授業になると一転、ひたすらアクセント、アクセント、アクセントだ。日本語(外来語)で打ち消されているアクセントの数々を、英語の授業では悉く生き返らせていかねばならない。一方そこでイントネーションの話は殆ど出ない。疑問文では語尾を上げましょうね、くらいだろうか。いや実際はもちろん英語の話し言葉での文章にもイントネーションはあるのだが、意識して指導はされていなかった。現代はどうなのかは知らんけど。

もう一度纏めると、日本人にとって、日本語はイントネーション重視、英語はアクセント重視なのである。

…つまらない話が長くなった。故に日本語の歌では、という所に持っていきたかったのよ。

故に日本語の歌では、歌詞を乗せるときに出来るだけ話し言葉のイントネーションを残す方向で進めた方が歌詞に託したメッセージがリスナーに届きやすい。歌詞を先に作って、そのイントネーションに合わせてメロディを当て嵌めていくのが穏当・妥当となるのだ。

宇多田ヒカルはこれを全然気にしなかった。「イントネーション?何それ美味しいの?」てなもんである。メロディを徹底的に重視し、話し言葉のイントネーションなど気にも留めずに自由に音素を音符に乗っけていった。それによって、(何度も言ってるけど)『Automatic』の『な/なかいめのべ/るでじゅわきを』が生まれたわけだが、正直ただイントネーションを無視しただけでは「歌詞を乗せるのが下手なだけ」でしかない筈なのだ本来は。ヒカルは、しかし、イントネーションを犠牲にすることで歌詞によって楽曲にグルーヴを与えることに成功したからこそデビュー当時絶賛されたのである。

その伝統はデビューから23年を経た最新作『BADモード』にも受け継がれている。特に、全英語歌詞の楽曲『Find Love』の日本語バージョン『キレイな人(Find Love)』に於いてそれが顕著である。ボーナストラック扱いだけれど。それについての話からまた次回かな。