無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

bondage voyage

一般的には、ひとから見られていないとわかればまずひとの注意を引く行動をとる所から始める。しかし、UtaDAの場合はそうではなかった。まずずっとひとから注目されるヒカルという存在があって、それとは異なるペルソナとしてのUtaDAがそこに居たのである。この違いは大きい。

つまりUtaDAになって日本の異国で衆目から解き放たれた事は文字通りの"解放"であったろう事は想像に難くない。何しろアルバムタイトルが出エジプト記、国から逃れて新天地を目指す事だったのだから。で、またまた一般論をいえば、そういう束縛から自由になった時、抑圧されていた自分の本性を出す的な方向に話は進みがちなのだが、光の場合はそういった衆目の重圧下で最終的にとった手段が"素の自分を見せる事"だったのだ。となると、そこから離れた時に見せる姿は別に素の自分でなくてよい。ここが大きな違いである。

見られる事に慣れ切っていた光が人の目がない状況で舞台に立った時、それを前向きに捉えられた事が大きかった。"いつものように私を見て"欲しいとは思わなかったのだろう。元々裏方志向というか、漫画家になるとか実験室に籠もるとか、そういう自分を想定する人である。抑圧下では自己を徐々に解放していった人間は、解放時には空っぽになるしかない。となればそこに働く力は新しい人格の創造という事になる。

それがピッタリ嵌るのがThe Dark Princess〜闇姫様だったのだ。いわばそれは、楽曲の為の、サウンドコンセプトの為の人格である。抑圧下自己解放を成した人間に、そこで訴えるべきエゴなど残ってはいない。舞台の上にあるのは最早音楽だけである。光はその時の心境をトランス状態に近かった、とかいう風に表現していたと思うが、つまりそれは闇姫という仮の人格を通して舞台の上で"音楽になった"のである。

その結果、やってる事はつまりシャーマンや巫女といった人間の伝統的な精神儀式体系の継承に近いものとなった。UtaDAでの、特に闇姫におけるパフォーマンスが"まるで別人"だったのは、この発端となったNYショウケースギグに於いて音楽を表現する為に生んだ人格に由来する。つまり、This Is The Oneでのパフォーマンスはまたそれとは違った風合いでもあった訳だ。EXODUSという、光がそれまでで最も大きな音楽的責任を背負い込んだアルバムの(半年)後のLIVEであった事が大きい。

そこで掴んだ"コツ"とは、つまり光自身が歌になる、音楽になる事だった―という話からまた次回。