無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

bonjour bondage

Newyork Showcase Gigに於いて最も象徴的なのは、その闇姫様の衣装である。

NYSCGが衆目からの解放下でのパフォーマンスの実践の契機となった事は今まで述べてきた通りだが、そこで着ていた―かどうかは実は知らないのだが、同じコンセプトでUtada UnitedのUtaDAパートが執り行われたのは確実なので、衣装も同様であったと考えておく事にする―その衣装は巷間でいう所の"ボンデージ(bondage)"、即ち"束縛衣"だったのである。解放の契機に衣装に束縛を選んだのだ。ここが今回のポイントである。

恐らく、何の深慮遠望もなかったのだと思う。Devil InsideやKremlin DuskやYou Make Me Want To Be A Manなどの曲調に合わせただけ、だったのだろう。しかし、結果的にその衣装はUtaDAのライブパフォーマンスを決定づける事になった。

Bondageとは、肉体に何らかの強制を与える機構の事だ。木工用ボンドのボンドである。人の目線という束縛はなかったが、いやなかったが為にそこには他の何らかの束縛が必要だった。繰り返すが、それは意図的ではなかっただろう。たまたま、束縛の代替、入れ替わりがあったのだ。ただ自由だと表現は足場を失うのである。

恐らく、先に挙げた3曲の他に、もうひとつ重要な曲がある。それがHotel Lobbyだ。NYSCGで演奏されたか否かは定かではないが、この曲のコンセプトの1つに、以前夏のExodus特集の折に触れた通り"鑑という檻"がある。鑑或いは鏡の中に歌の主人公が囚われている、という比喩は即ち他者の目線が束縛として機能する様子を表している。鏡は、自己が他者に成り代わって自らに視線を与える機構であり、光は鏡を通して自らを陥れていく哀しみをこの曲で描いた。『零れ落ちそうな私を抱き止めて』という悲痛とも言えそうな一節でこの曲は幕を閉じる。光自身が、このアルバムでいちばん好きな曲だと発言していた。

束縛を"衣装"として表現する事は即ち、他者の視線の具現化である。コルセットのように、自由を損ねそこに何らかの理想を肉体に押し付ける。本来からして自分でない何かを"演じる"為の装置なのだ。

そして一方で、肉体への束縛は精神の解放もまた意味する。ここで、ヒカルが他者からの視線を浴びて自己の発露と表現に向かった経緯を鑑みるとそこには更なる高みを感じとる事が出来る。自己と自我の昇華である。

更にややこしい事に、光が音楽の創造者としてのペルソナとパフォーマとしてのペルソナを別個に育ててきた、という基本を思い出さねばならない。2つのペルソナ、他者の視線と自己表現、この2つの"異常事態"の掛け合わせが、光に独特の成長を与えていく訳だ。次回はそこらへんの話を描いてみたい。(かなりこんがらがってきたので諦めるかもしれないけれど(笑))