無意識日記々

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SayThanks&Farewell,ToTheUnborn

光が人間活動中に生まれてくる音楽的アイデアの数々の行方とは、一体どうなるのやら、見当もつかない。

楽家にも様々なスタイルがある。ジャズ・ミュージシャンなどは一期一会、喋るように楽器を弾き次から次へと新しい楽想を生み出していく。お笑い芸でいえばフリートークの達人で、その場その場で笑いを生み出していくのと同じように、その時にしか生まれ得ない感動や感情や感覚を齎してくれる。極端な話、彼らの音楽を隅から隅まで知っていたければ、24時間一緒に過ごすしかない。

全く逆のパターンもある。ひとつの楽想のタネを大切に大切に育て上げる。ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返し再研鑽と再検討を繰り返し、凝縮された楽曲を練り上げ編み上げ作り上げてゆく。アルバムとアルバムのインターバルが8年にも及ぶThe Blue Nileなどは一例だろう。お笑いでいえば、作家が台本を書く漫才、或いは、何百年と語り継がれる"古典"をも生み出し得る落語といった所か。

とにかく数を打って総体で人生の機微を表現する即興型と、ひたすらベストに特化していく職人型と。どちらも魅力的だがヒカルは後者に分類されるだろう。分類されるの嫌いそうだけども。

後者の作品の純化の過程、結晶化にあるのは、兎に角不要なアイデアを捨て続ける事である。ああでも"ない"、こうでも"ない"、という試行錯誤を通じて、大量の"ああ"や"こう"は捨てられていく。美しく結晶化した音楽の背後には、夥しい数の"死体"が転がっているのだ。物騒な言い回しになるけれど。

実は即興演者も同じだったりする。次の音を出すとき、その特定の音以外の音を出す可能性を捨てているのだ。あらゆる即興演奏は、生まれてきた時に既に生まれ得なかった音の数々に立脚して存在しているのである。

音楽が救われるのは、だから、生まれた音が、選ばれた音がまた誰かの心に鳴り響いて、また新しい音楽が生まれる事だ。それが延々と、連綿と、永遠に続いていく事が、生まれてきて捨てられたこどもたちと、生まれる前に捨てられたこどもたちの供養になる。我々が生きていく、というのにも似た側面があるが、あんまり概念的になりすぎてもいけないかな。

だから、ヒカルのような、あらゆる音楽が生まれたがる人が新曲を出すのは殊更意味がある。桜流しがリリースされた事で、どれだけの音たちが救われたか。そして、これから新しい音たちが生まれるか。まさに、それこそが『私たちの続きの足音』なのだ。街に響く事の出来た産声は、大切に大切に育んでいかなければならない。