無意識日記々

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16周年をこじつけてみた

『こんなに素敵で幅広いジャンルのアーティストたちに丁寧に、個性的にカバーしてもらったの聴くと、頑張っていっぱい曲書いてよかったなって素直に思えるよ。』

噛み締めるように書き写した。先日のヒカルのツイートだ。真心が籠もっている。心からそう思う。


著作権法の存在によって、どうしても、音楽家、作曲家というものは自ら出でた楽想を他者が使用する事を厭うものなのではという誤解があるようだが、全くそんな事はない。

そういった受け取り方は、肝心なポイントを逃している。問題なのは、嘘をつく事の方であり、音楽的な引用の話ではない。実際には他者の楽想を引用したのにもかかわらずあたかもそれが自らのものだというフリをする事が問題なのだ。大事なのはそこじゃない。

作曲家というものは、自分から出でた楽想が引用されたり発展させられていったりするのを見るのが大好きである。もし著作権法に頭を悩まされていなければ、だが。それは自らの音楽が遺伝子を伴ったという事であり、まるでそれは生きているかのように、生命を与えられたかのように振る舞う。自らの音楽が永遠を生きるかもしれない可能性を手に入れるのだ。それは生命の営みそのものである。

ヒカルとて例外ではない。出来不出来は二の次で、まずは自分の作った歌が歌われるのがたまらなく嬉しい。SMAPxSMAPで中居君がぼくはくまを歌っている時のヒカルの嬉しそうな顔をみたか。くまちゃんコンテストの時の常軌を逸したハイテンションぶりを覚えているか。いやそれはただくまが好きなだけだと言い返されても私は反論しないけれども、兎に角自分の書いた曲が他者と響き合うの耳にするのはこの上なく素晴らしい。あなたの曲を聴きながら散歩をしましたとかお皿を洗いましたと言われてどれだけ嬉しいか。いやはや。


そんな中で、一流の作曲家たちが自分の曲を"生まれ変わらせる"というのだからこれは異様に期待せざるを得まい。勿論、作曲家というのはこだわりにこだわり抜いてオリジナルを作り上げるのだから一音々々に意味や意図を託しているものだが、そこから一歩引いて、自らのペンによる楽曲が他者の創造性を触発したという事実には実に力強い印象が与えられる。"創造に貢献する"というのは、この上ない喜びである。そこを外してはいけない。実は拙くされても嬉しいのだが、今回は物凄く巧くやられてしまったので、面映ゆいやら恥ずかしいやら誇らしいやら。


『他の歌手だと自分の書いた曲でも泣けちゃう不思議。』とも、ヒカルは書いている。我が子のような自分の楽曲を歌う時って心配ばかりだ。ライブで歌うならブレスはどうのビブラートはどこからかとチェックポイントはやまほどある。出来上がったCDを聴いているだけでも、何か間違ってないかな、もっとよくできたのだろうかと妙な葛藤が始まる。落ち着かないし、そわそわする。

これが、他者によるカバーとなると、まるで我が子が社会に出て飛躍したような、あらやだこの子ってば職場だとこんな顔するのね的な感慨が湧き上がってくる。或いはもっと直接的に、我が子が孫を生んでくれました的な喩えでもいいよ。自分の手から一端離れた自分の分身が立派にやってくれてるのをみればそりゃあ涙腺も緩くなるさ。


それは、ファンにとっても同じである。言い切ったろ。同じなのだ、本当は。聴き慣れた、15年慣れ親しんだ楽曲がどんな風に生まれ変わっているか。オリジナルに対する愛着が大きければ大きいほど、躊躇もあろう。手塩にかけて育てた我が子の幸せを思うあまり「お前のようなヤツに娘はやらん!」と怒鳴ってしまうのもむべなるかな。でもねお父さん、ひかる子だってもうこどもじゃないのよ、立派な大人になったんだから、ちゃんと温かく見守ってやりましょうよ。

そうなのだ、宇多うたアルバムの発売日は2014年12月9日。宇多田ヒカルのデビュー16周年記念日である。ヒカルの曲たちは、16歳を迎え始めるのだ。16歳といえば、日本では女子が結婚出来る年齢である。ヒカルの楽曲が"嫁に出て魅力が増して幸せになる"様を見届ける為にも、ファンならどうか宇多うたアルバムを手に取って欲しいと思うのだった。まる。