くまちゃんの話になると哲学的・思弁的・抽象的・概念的・思想的・宗教的になるから疲れる。音楽の話でもしようか。普通は逆だ。
この20年、商業音楽は停滞していると言っていい。衰退している、とまでは一概には言えない。CDの売上は落ちていても、興業は順調だからである。原因は単純で、才能が音楽業界以外に流れたからだ。新しい潮流を作る気概溢れる人たちはコンピュータの周りに集まった。インターネットとゲームだわな。日本で元気な企業も、大体そこらへんだ。
ヒカルは、毎度言っているように、日本が隆盛を極めた90年代の最後に登場した。問題なのは、常々言っているようにその才能が後進への影響となって現れ難い事だ。例えば、これがお笑い業界なら、MANZAIブームの末期に登場したダウンタウンは、本人たち曰く全くそのつもりはないようだが、後輩たちを積極的に起用して業界全体を盛り上げた。結果、今のテレビの主力はポストダウンタウン世代だ。いや正確にはボキャブラ世代かな。兎に角、ひとつの才能の出現が次に繋がったのである。
宇多田ヒカルが登場した時はどうだったか。思いつくのは浜崎あゆみをライバルに仕立て上げた事と倉木麻衣を登場させた事位か。その時稼ぐアイデアとしては正しかったが、これは全く次に繋がらなかった。ヒカルに憧れて歌手になったという世代も出てきたが、ジェネレーションを形成するには程遠い。
しかし、これもまたこの業界の伝統のようなものだ。藤圭子だって井上陽水だって、業界ナンバーワンの売上を上げても決して主流派にはならなかった。どこからともなく現れた天才を食いつぶしてそれで終わり、というのはいつものことで、ヒカルとて例外ではなかった。これはレコード会社云々というより市場としての特性といった方がいいかもしれない。
つまり、トップに立つ人間が内向的かつ非社交的だったりなケースが多いのではないかという事だ。ヒカルは決して人当たりが悪い訳ではないし、過去様々なコラボレーションを成功させている事からも非社交的とはとてもいえないかもしれないが、音楽的孤立度は相当なものだ。
これは、一言でいえば"シンガーソングライター"の系譜なのだろうか。藤圭子は作詞作曲をしていた訳ではないし、ヒカルのような打ち込み主体の音楽家をそう呼ぶのは私の世代には抵抗があるのだが、組織からひとりであぶれるような才能がふらっと出てきて特大ヒットを飛ばすような"伝統"が、この国にはあるかもしれない。
とすれば、寧ろこの国の音楽業界が活性化するのはこれからかもしれない。コンピュータに向かう人間が増える中、そこから音楽に向かう人間は必ず出てくる。インターネットというシステムは、組織からあぶれた孤独な才能を見いだすにはうってつけだ。…というのが一般的な楽観論なのだが、果たしてそううまくいきますかどうか。ヒカルが戻ってきた時にどういう状況になっているか、いや、どういう状況になったらヒカルが戻ってくるかを見てからまた考えるべき事かもしれないな。