無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

バッハじゃないのホントにもう(笑)

大バッハのフレーズを耳にする度に、「嗚呼、人類史上最強。何ぴとたりとも彼に敵う筈もない」と思う。なのに何故私は毎日彼の曲を聴いて日記を書こうとせず宇多田光宇多田ヒカルと囀っているのだろう。自分でも不思議だ。彼女が如何に桁外れの音楽家であろうとも、大バッハと較べれば有象無象の一滴に過ぎない。

ひとつは、もう彼がこの世の人間ではなく、彼の生演奏を聴く事も出来なければ(一応オルガニストだったらしい。時代が古いのでどう解釈すればいいのかわからないけれど)、新曲への期待に胸膨らませる事もない。しかし、彼の残した曲は1000曲以上あるのだからその気になれば一生を費やして探究するに余りある財産がそこにはある訳で。やっぱり不思議だ。

では、と逆に考えてみる。私が今より100年遅く生まれていて、ヒカルの音楽を歴史の中にしか見いだせないとしたら、果たして私は夢中になっていただろうか。

容易に想像できるのは、まず来世紀の私は「こんな人間、実在した筈がない。虚構だ。」と断じるであろう事だ。確かに耳に入る楽曲は素晴らしいが、当代の天才達が寄って集って作り上げたものを集積したのだろう、なんて風に解釈する。それが女性で、10代からこのクォリティーだと言われれば…やっぱり信じられない、な。

しかし、まぁ22世紀ならメッセから映像から何もかも残っているだろう。それを見ると…単一の人間がそこに居て、作詞作曲して歌まで歌っていたと思い知らされるのだ。結局、22世紀の私もいつのまにか光に夢中になって彼女の足跡を追っているんじゃないか、というのが私の感触だ。二度と生で見られないからこそ、もっと恋い焦がれているかもしれない。ありがちだなぁ。

曲のクォリティーだけでもない、リアルタイムだからだけでもない、なのにこういう風に感じているのは何故なのか。…その答えを知りたくて賢者を訪ねようにもどこにも見当たらないので、こうやって毎度日記を書いてその魅力の在処を探っている訳なのね。いや賢者に会えてもどうせ「教えない」って言われるだけだしな。


しかし、この営みっていつか終わる日が来るのだろうか。もし時代が100年ズレててもこうしてたんじゃないか、と思えるなら、多分そんな事考える必要ないんだろうな…


…大丈夫、私は根っからのフラグ・クラッシャー(笑)。