無意識日記々

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現実と虚構の境をクラクラと

もう一度紅白歌合戦の話に戻ろう。去年の同番組は、現実の物語が虚構の物語に圧倒される、というエポック・メイキングな回だった。その事自体を物語と捉えるのならば、それはそれで現実の物語なのだけれど。

小さい頃、ドラマの最後にテロップで出る「この番組はフィクションです。実在のうんたらかんたら」の一文が不思議で不思議で仕方がなかった。まだサンタクロースを信じているようなとぼけたガキンチョで、親に「フィクションってなぁに?」と訊くような感じだったのだが、それでも、テレビの中の出来事を現実の物語として受け取る人間が居る事が信じられなかったのだ。サンタクロースは信じていても、あれはクロマキーで、青色の服を着ちゃいけない、なんて事はわかっていた。まぁ、サンタクロースは兎も角、虚構を現実と捉える人が居る事自体は、未だに馴染めない。

そんな私でも、流石にあまちゃんの演出は「これはどこまでが現実か混乱する人が多いだろうな」と納得をせざるを得ない綯い交ぜ振りだった。いやはや。あんな事が出来たのは、人が、自分の人生自体により、ドラマ自体にドラマを望むようになってきているからではないだろうか。その過渡期の結節点に「あまちゃん」があると思うとわかりやすい。それだけ、この国での「平凡な、ありふれた、ドラマのない人生」の価値が高くなっているという事で、大変結構な話である。勿論それは現実に夢を見る機会が減っているという事で、そんな国は黄昏の時代なのだが、これからの超高齢化社会にはそれ位でちょうどいいだろう。


宇多田ヒカルも、現実として、虚構のドラマに基づいて歌を作ってきている。幾つかの人気ドラマの主題歌を歌ってきてはいるが、それらを総て蹴散らす勢いで、新世紀エヴァンゲリオンの主題歌を歌っているのは意義深い。

視聴率等の数字では全く負けているが、こと作品世界の神話性という点において、EVAは全く実写ドラマの追随を許さない。アニメーションというメディアの最大の特徴のひとつに、キャラクターは死なない、というのがある。ミッキーマウスの凄さ、日本でいえばドラえもんアンパンマンなどだが、EVAにおけるシンジやレイやアスカやみんなのキャラクターとしての生命力をみれば、そこで紡がれる物語の力とその永続性が甚だしい事がわかる。この、周囲を大きく巻き込んだ虚構の物語に、ヒカルは今までにBeautiful Worldと桜流しの2曲を提供しているのだ。

この2曲は、何なのだろう? あまちゃんのお陰で、音楽のレイヤーについて考えなくてはならなくなった。歌詞のテーマが、どのレイヤーについて歌っているか、考えなくてはならなくなった。あの2つの歌は、EVAにとって何だったのか。

秋アニメに「キルラキル」という作品がある。先日、その中で、劇中の世界で実際に流れている音楽、つまり、キャラクターたちが耳にしている音楽と、我々視聴者にしか認識されていないと約束されている筈のBGM、即ち劇伴音楽が正面からぶつかり合う、という演出がなされていた。左右のチャンネルに別れて音量を競う感じで。こういうのをされると頭がクラクラして実に楽しい。そのすぐあとに劇中のキャラクター(洲崎綾演じる満艦飾マコだ)がアニメの書き文字の上に乗っかるというワザまで見せてくれた。この、フィクションの中でもフィクション同士の境界線上を行き交うような演出。こういうのに今、リアリティを感じる。

旧世紀版のエヴァンゲリオン劇場版では、急に銀幕上に実写を映し込んだ事もある庵野総監督だが、彼のセンスをもってすれば、ヒカルの2曲がエヴァンゲリオンの物語の中で、フィクションの境界線上を行き来する日が来るかもしれない、なんていう仮説がアタマをよぎる。そんな提案をされたらヒカルは何と返事するだろうか。きっと彼女のアタマもクラクラするに違いないのだ。面白い時代になってきた。