無意識日記々

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モノラル世代とステレオ世代

最近わざとモノラルで音楽を聴く、なんて話を前からしているが、慣れてくると「音楽って別にステレオでなくてもよいなぁ」と普通に思えるようになってきた。

そもそも、ステレオが主流というかポピュラーになってまだ半世紀も経っていない、というのが実状ではないか。有名どころではThe Beatlesがアルバムをモノラル盤とステレオ盤で出していたが、彼らの活躍していた60年代以降にステレオというスタイルが定着していった気がする。

当欄でも何度か取り上げてきた、「三宅Pは音を波の重なりのように捉え、ヒカルは音を風景のように捉える」という対比のルーツも、もしかしたらモノラルとステレオにあるのかもしれない、と思うようになってきた。

三宅Pがこどもの頃というのは、まだまだステレオが普及しきる前で、音楽を聴く時にはモノラルである事が多かったのではないか。最初のカルチャーショックが例えば先述のThe Beatlesだったりすれば、それはモノラルの音源だった可能性が高い。例えば黎明期のAMラジオでは、それぞれモノラル放送だったNHK第1とNHK第2を同時に鳴らせば、即ち、高価なラジオ受信機をわざわざ2台用意して周波数の異なる局を同時に受信して鳴らせばステレオになる、だなんて番組もあったらしい。ホントかどうかしらないが。それくらいステレオはまだまだレアで、かつ何らかの需要はあった。しかし三宅Pの幼少の頃はやはりモノラルが主流だったと考えていいのではないだろうか。

一方、ヒカルはといえば生まれた時からステレオに囲まれて育ってきた筈だ。何しろ元歌手と音楽プロデューサーに育てられ、宿題をスタジオでやる生活をしていたのだから。好むと好まざるとにかかわらず音楽は自然とステレオで耳に入ってきただろう。

モノラルとステレオで何が違うかといえば、音像の空間的な広がりである。モノラルだと、あらゆる楽器が一ヶ所にかたまって鳴っているように聞こえる。他方ステレオは、適切な位置(即ち左右のスピーカーから等距離の地点)で聴取すれば音像は立体的に、即ちいわゆる"楽器の定位"というものが定まる。右手にピアノ左手にチェロ、左奥にパーカッション右手前にアコーディオン、とかそういう"風景"がみえてくる。それがステレオだ。

つまり、三宅Pの小さい頃は、ヒカルのように音楽を風景で捉えたくてもそもそもそういう風に音が鳴っていなかったのである。そこで必然的に、音像を波の重なりのように捉える習慣がついた。ヒカルにとっては、最初っから音楽は空間的な定位を与えられて鳴っているものだったから自然と音を風景として捉えるようになったのだろう。2人の個性の違いも勿論あるかもしれないが、それ以上にこの"モノラル世代とステレオ世代"という年齢の違いが大きいのではないだろうか。

三宅Pといえば"ハーモニーの鬼"として有名だが、彼の嗜好もそういった音の原風景と強く結びついているように思う。特にボーカル・ハーモニーというのはそれぞれの声部が空間的にバラバラに位置していたのではいまいち美しくなりにくい(それを狙う場合もあるだろうが)。例えばアカペラグループがマイク一本だけを立てて五声部のハーモニーを奏でるなんて光景は見慣れているが、あれなんかはまさに"マイクは一本でいい"="モノラルでいい"ケースの典型だ。多声とは一ヶ所に綺麗に重なりあった時に美しさが増す。実際、モノラルで聴いていてもコーラス・ハーモニーの魅力というのはそんなに損なわれないものだ。一度聴いてみるといい。

三宅Pのコーラスハーモニーセンスというのは、そういった"音を波の重なり合い"とみて捉える方法論に基づいているのではないか。モノラルとステレオを聞き比べていて、そんな風に思った次第である。