無意識日記々

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モノラル・ステレオ・LIVE感、リアリティ・"3D"

何だか凄くニッチな話に終始してる気がするが、気にしない。

ステレオでなくては伝わらない事って何だろうか。

まず、モノラルで何が伝わってくるか。メロディーの美しさ。これはモノラルステレオほぼ関係ない。メロディーはどちらでも美しいままだ。リズムやグルーブ。これも、余程音像が混み合わなければ十二分に伝わってくる。音楽にノる為にはステレオは不可欠ではない。モノラルで十分だ。ハーモニー。音を複数重ねる訳だが、前に述べたように寧ろこれはモノラルの方がいい場合すらある。溶け合う魅力にステレオは必要ではない。アンサンブル。楽器の絡み合いだが、これも一つ一つの楽器のフレーズが拾い切れる程度の混み具合ならその良さはモノラルで大体伝わる。問題はないだろう。

つまり、音楽の基本的な要素、即ちメロディー・リズム・ハーモニーを表現する為にはモノラルは必ずしも必要ではない。しかし、では、ステレオを鳴らした瞬間に感じる"あの迫力"は何なのだろうか。恐らくそれは"リアリティ"なのだ。

つまり、"あたかもそこにバンドやオーケストラが居て演奏してくれているような"感覚。それは、モノラルではなかなか味わえない。ステレオでなくては伝わらない魅力、それはリアリティ、"LIVE感"なのだと言う事が出来る。

シンセサイザーミュージックのように総て打ち込みの場合に生じるモノラルとステレオの違いは何なのだろう。それは、自分がその作り出された"音の世界"の中に居るように感じられるかどうか、なんだと思う。演奏者が想定されていなくても、あの音がこっちで鳴っていてその音があっちで鳴っている、という状況が"世界"を作り出す。擬似的とはいえそれはやはり"リアリティ"と呼ぶべきものだろう。

そこが、昨今言われてきた「"3D"映像と従来の2D映像の違い」とは異なる点なのだ。普通に考えれば、2D映像とは音でいえばモノラル、"3D"映像とは音でいえばステレオで、音楽の世界でモノラルは姿を消し(少なくとも制作面では)ほぼ総ての音源がステレオかそれ以上(5.1ch等)で残されるようになったのに対し、映像の方は2Dから"3D"に移行していくようになったかといえばさにあらず。相変わらず、というか"3D"はかなり下火になってきていて従来の2Dを脅かすような雰囲気は今のところ、ない。

それはあクマで「今のところ」の話であって、もう少し長いスパンでみれば徐々に"3D"が普及していくだろう…という見方もあるかもしれないが、私の見立てでは「それはない」と断言できる。音楽がモノラルとステレオへ移行したように、2D映像が"3D"映像に移行していくとは到底考えられない。

…ここから先の話は長くなるので一旦切る。要点を先に述べておこう。復帰後の光は、もしかしたらMusic Video Producer、或いは映像作家として、あの素晴らしいGoodbye Happiness PVに続く映像作品に携わるかもしれない。宇多田光というクレジットで。その時に、どういった理念・哲学において映像の手法を選択するか、という点について掘り下げてみたい訳だ私は。"3D"映像に取り組むのもひとつのチャレンジとなるかもしれない。その時を夢想して、まずは音楽との対比から映像面の哲学を探っていきたい、と考えている。果たして"PV監督:宇多田光"のクレジットはGBHPV一回限りのものなのか、はたまた今後も継続していくのか。今から楽しみでしょうがないんです。だってGBHPVのあの素敵さを考えたら、ねぇ?