無意識日記々

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幸せな苦笑い

作り手側が受け手側の視点を失ったら大抵はおしまいである。売る方が「こんなの自分は使わないなぁ」と思っていては、それは売れない。まず自分が買いたくなるかどうかは重要だ。

ただ、アーティストという種類の人は確かにちょっと違う。作る事自体が目的で、作り終えたら用がない。もう既に新しいものに取り組んでいる。完成はお別れである。ヒカルにもそういう節がある。

商業的にはこういう態度は難しい。ヒカルがそのバランスをどうとるかは永遠の課題である。別に売りたい訳じゃなく、孤高のアーティストになるには性格が優しすぎるだけだ。まぁ小森君に言わせれば「あんな厳しい人居ないっすよ!仕事中に酒買ってきてとか言われるしさぁ…」ってなるのかもしれないけど。ちょっと羨ましいなぁ。我々の業界では御褒美です。

優しさを起点としたサービス精神だから、それは総てヒカルの体力と精神力に依存する。極端にいえばお金で報いる事ができないのだ。イチローが「僕幾ら貰ってると思ってるんですか」と言った事があったが、彼らにとってお金はプレッシャーと義務感でしかない。勿論感謝しているに決まっているんだけれども。

商業的な成功を成果として受け入れられる人は働く理由に事欠かない。裏を返せば、我々はなかなか働く理由を与えられない。

どうせなら、ヒカルが借金でもして「稼がなきゃならなくなった」とか言って曲を売り始めてくれればこちらもラクなのだ。「よっしゃ、買ったろ。」てなもんである。「おっちゃん応援したってるで。」とデカい顔でデカい口を叩けるってなもんである。現実は異なり、我々の方がヒカルにお願いする立場だ。

そういうもんだと思っているので、いやそれが自然だと思っているので私は何の不満もないのだが、なのにPopであろうとするから「大変だなぁ」と毎度思ってしまうのだ。落ち着かない。

この落ち着かない気持ちも、きっとまた次の曲を聴いたら吹っ飛ぶ。桜流しでそれをイヤという程体験した。しかし、気持ちが吹っ飛んでもそれはこちらが曲に気を取られていたからで、またふと振り返ってヒカルの方を見てみると何か疲れている。漲っていないのだ。漲ってないのにあんな曲が書けるだなんて奇跡でしかないが本人が奇跡を超越した存在なので仕方がない。

こうやっていろんなフェイズを考えながら、皆が納得する感情の組み合わせを考える。あちらが立たねばこちらが立たぬ、ではなく、両立。二足の草鞋は可能だ、なぜなら手は2つあるからだ―って繋げて書くとこれ足の話が手の話にすりかわってるんだよねぇ。うーん。

多分、私は、他の天才たちに"満足"というものを与えられているから、こういう風に考えているのだろう。今ワンピースの最新刊を買って帰るところだが、楽しみしかない。面白いに決まっているのだから。そう確信するのは、尾田が誰よりもワンピースという作品を愛しているからだ。彼に任せておけばよい。心配なのは彼の健康だけである。昨日アイアン・メイデンの話を出したが、こちらも全幅の信頼を寄せている。なぜなら、リーダーのスティーヴ・ハリスが、世界中の誰よりもバンドのコンセプトを理解しているからだ。

つまり、冒頭の問いに連ねるのなら、尾田氏やハリス氏は、自分の作った作品を間違い無く好きだし、売ってたら誰よりも高い値段で買うだろうし、誰よりも熱心に作品を味わうだろう、と。彼らが作品を作る事で世の中でいちばん幸せになるのは誰あろう彼ら自身なのだ。売れているからとか質が高いからとかでは"信頼"は生まれない。彼らに対する安心と信頼は、彼ら自身が誰よりも満足するから生まれる。我々は外からそのうちの何%かで楽しませて貰っているに過ぎない。彼らだってファンの事を考えて作品を作っているが、自分自身がそのファン代表なのだから自分の事考えてるのとそんなに変わらないのだ。

他人の為に頑張る人には見返りが必要だ。本人もそう思うだろうし、頑張られる方も見返りを与えないとという義務感に駆られる。それはそれで美しい関係だとは思うが、ずっとそれだとお互い疲れる。どこかで休みたくなる。結局、私は「ったくヒカルってば仕方がないなぁ。」とか言いながらニヤニヤしてみたいだけかもしれない。でもそれが、物凄く難しい。それをあっさりさせてくれるくまちゃんは本当に菩薩のような存在である。「またコイツくまくま言ってるよ〜」という幸せな苦笑い。そろそろ欲しい頃合かもしれませぬ。