困った。この1ヶ月、宇多うたアルバムについては「愚痴と難癖」をメインテーマに据えて綴ってきた。しかし、その流れに終止符を打たねばならない。井上陽水の"SAKURAドロップス"が凄すぎる。どれだけ批評のハードルを上げてもこのトラックを貶すのは難しい。正直、ここまでレベルの高いカバーは殆ど聴いた事がない。世界レベルと言っていいんじゃないか。難癖をつけるなら最早「俺陽水嫌いだから」しか言えねぇ。しかし残念ながら私は幼少の頃から「中森明菜のバージョンより井上陽水のバージョンの方が好き」とか言ってた人種なのでそれは無理だ。
このテイクを聴いた人の凄く多くが、途端に手を叩いて大笑いし、「あのSAKURAドロップスをこんな風にするなんて!」と呆れるだろう。そして間違い無く楽しい。音が楽しいと書いて音楽である。井上陽水のパブリックイメージと原曲のイメージの交差点、そこはかなりピンポイントだが見事に突いている。
3つの要素。SAKURAドロップス、井上陽水、ラテンフレイバー。コーヒールンバ、と正しく指摘していた人が居たな。アレンジの基本はサルサと言っていいかな、オーソドックスなものだが、この3つの要素を結び付けようという発想がまず素晴らしい。確か沖田さん側が人選と同時に選曲も提示している筈で、だとすれば主犯は彼か。陽水ならラテンでウマく料理してくれるだろう、という所までは想像がついても、その食材にSAKURAドロップスを持ってくるかね。最初っからこの完成形を思い描けてあたとしたらぶっ飛んだ想像力だ。天晴れ。
だがしかし勿論、いちばん凄いのは井上陽水の歌唱である。この人以外でSAKURAドロップスをラテンフレイバーで歌いきれるなんてなかなか難しい。正直、ヒカルでもここまでうまく出来るか疑問だ。その意味で、このカバーは発想と着眼点だけでは勝利しきれず、彼の独特の声を以てして漸く勝ち取れる。結果は圧勝である。
何が凄いって、あのメランコリックでロマンティックで切なくて壮大で力強くて美しいバラードを、ラテンの軽快なリズムと華やかなアレンジに総衣替えしてもうそれこそ音楽性を180°逆転させておきながら、あの曲の芯であり軸である歌に対する真摯さとシリアスさを失っていないという事だ。左端から右端まで振り回しておきながら軸が一切揺るいでいない。こんな芸当が出来るだなんて妄想でですら考えられなかった。唖然とするわ。
勿論、我々聴き手はそんな難しい事を考える必要もなく、このただただ楽しいサウンドに身を任せて口遊んで踊っていればいい。しかし、その娯楽性を担保しているのは、軽薄に薄ら笑いを浮かべながら歌っていながらサングラスの奥の目は至極真剣そのものなシンガー・井上陽水だ。
彼の言葉の、歌詞に対する嗅覚とセンスには恐れ入る。SAKURAドロップスの歌詞はそれ自体も美しいがメロディーとの絡み合いがまた素晴らしい。そこのところを一瞬で斟酌して一つ々々の単語をどう歌えばこの歌の軸をぶらさずに且つラテンのアッパーなムードを保てるか、まるで綱渡りのように難しい"正しいラインの選択"を、陽水はもう軽々とやってのける。これはもう歌詞という特殊な日本語と半世紀近くに渡って向き合ってきた天才の長年の経験の賜物としか言えない。いやはや、脱帽である。本当に文句をつけようがない。
こんな冗談のような、道化のようなテイクに何を熱くなっているのか、何も考えずに聴いてもこのテイクは楽しいんだから、という指摘は全く正しい。それを正しくするのがどれだけ難しいか。これは、原曲を作ったヒカルと、彼女や彼女の母親同様にソロ・アーティストとして孤独のミリオン・ヒットを飛ばしていた孤高故の苦悩を知る元アンドレ・カンドレという天才二人の化学反応ならではの奇跡である。笑い飛ばせる奇跡。天才って素晴らしい。次回もこのテイクについてもうちょっとだけ掘り下げようかな。