無意識日記々

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光が歌がウマいのを疑うまい話再び

ヒカルの「歌のうまさ」については、この19年間随分誤解されてきた。事ある毎に「声量や声域で圧倒するタイプではない。"選択"が正しいのだ。」と繰り返してきたが、伝わっているだろうか。

声を操る技術も確かに高い。が、それが真髄ではない。ヒカルがマイケル・ジャクソンについて語った通り、彼同様ヒカルもまた「この歌をどう歌うべきか」を知り尽くしている天才である。

次の言葉を口にする時、長く伸ばすのか短く切るのか。大声で叫ぶのか小声で囁くのか。リズムに乗せるのかズラすのか。「歌い方」には無限と思える程の可能性がある。そこから最適解を導く力がヒカルにはある。強い。

何度か話してきたエピソードだが、私が最初にヒカルの歌唱力に圧倒されたのは『Automatic』ではなくその後に聴いたCubic Uの「Close To You」だった。カレン・カーペンターの可憐な(←一度言ってみたかった)大人っぽい歌声をフィーチャーしたカーペンターズの大ヒット曲を14,5歳のガキンチョがどう料理しているのやらとやや侮り気味に聴いてみたら打ちのめされた。どのチェックポイントも完璧だった。このガキンチョはこのメロディーのあるべき姿を完璧に理解している。99年当時チャートに溢れていた「プロデューサーの指示通りに歌う歌姫たち」とは全く違っていた。

歌い方の「選択」は確かに終わりのない作業だ。が、ヒカルが引用を引用した哲学者クリムナシュルティは「選択は迷いだ」と言い切る。確かにその通り。本当にあるべき姿を身につけていたら、わざわざ選ぶまでもなく「そうなる」。本当にいい歌は歌い方が一意的に決まる。いや、"もう勝手に決まっている"。歌手はただその通りに歌うだけだ。即ちただ歌うだけなのだ。

ヒカルは頭の回転が速すぎるせいか、歌っている時にしばしば考え過ぎ、歌のチェックポイントを意識し過ぎる所が弱点といえば弱点だ。これは本来ならリハーサル・ルームで済ませておく事だ。何も考えずにマイクを持てば自然とそうある姿を自然に歌えるまで、逆説的だが徹底的に歌い込むその時間がいつも足りていない。結局、例えば『Utada United 2006』でベストのパフォーマンスを見せれたのは最終代々木2公演だった。厳しい事をいえば(かつ、現実を無視して夢寝見に寝ぼけた事を言えば)、本来初日からそのレベルのパフォーマンスを見せるべきなのだ。ツアーが進むとともに成長していくヒカルの姿を追えるのは何よりのエンターテインメントかもしれないが、それが出来る、やってしまうのは一部の酔狂なファンだけであって、殆どの人にとってナマの宇多田ヒカルは一夜限りの存在である。その夜を素敵にしてくれなくては意味がない。

だから、理想を言えば、ヒカルがマイクを持った瞬間に総ての決着がつくようなコンサートをクマ無く催せるのがいい。果たして現実はどうなるか。「歌に導かれて自然とあるべき姿に辿り着く」話と「沢山練習して自然に歌えるようになる」話を敢えて混在させてみたが、結論は同じだ。ヒカルは歌がうまいのである。