無意識日記々

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"人と夜空の対話"

大橋トリオの"Stay Gold"の美点は、まず前回(いつだよ(笑))解説した通り「宇多田ヒカル史上最も女性らしい口調の歌詞を無理なく男性ヴォーカルで表現出来るアプローチを見いだしたこと」であった。そしてもうひとつの美点はピアノのアレンジである。

これは(これも前回ちょっと触れたが)ちょっと凄い。元曲がギターなところをピアノでアレンジする、なんていうのはカバーとしての意義をよくわからせるが、そもそもピアノがメインのアレンジである元曲と同じくピアノでアレンジしておきながらカバーとしての意義を感じさせているのだから。

ピアノに関しては、ヴォーカルとは対極的なアプローチともいえる。歌声はヒカルのエモーショナルで"どこか笑顔"なそれとは違い、無表情で、虚ろですらあるのだが、ピアノの方は元曲と似通ったトーンで最後まで押し切っている。だから凄い。何故ここまで近しいのに独自性を感じさせるのか。

オリジナリティにこだわる人は、他人に似ている事に敏感なものだ。曲を作って既存のアイデアに似ていたら破棄をする。それは潔く、そのこだわりが新しい音楽を生むのだからよい事なのだが、本来オリジナリティとは他者と似ているか否かは関係ない。オリジンという言葉が発端とか起源を意味するのだから、ただ単に「そこで生まれたもの」に過ぎないのだ。それが結果として、他のなにものにも似ない可能性が高いというだけであって、大事なのは貴方の心から出てきたかどうかなんだ。

大橋トリオのStay Goldにはその"オリジナリティ"を感じる。寧ろ目一杯元曲のヒカルのStay Goldを参照にしているのに、このピアノの音色は彼の心から湧き出てきているように聞こえる。全体の展開に迷いがないのがその証だ。ひとつひとつの音がきちっと意義をもって動いている。だから、無理がない。こういうのも"カバー"と言っていいんだ、と許された気持ちになる。陳腐な言い方をすれば「他人の曲を完璧に自分のものにしている。」といったところか。

特に印象的なのが、ブリッジ(Bメロ)のピアノの、1番と2番の違いである。1番では受け身というか、大きく歌メロを抱き抱えて支え応えるような感じだったのが、2番では少し早めのアルペジオで寧ろ曲を引っ張っていき、そこにヴォーカルがついていくような構成になっている。

その"転回点"は、1番の後の間奏である。ここでピアノが意志を持つのだ。はたと気がついたようにピアノが曲を引っ張り始める。Aメロではやや抑え気味だが、その"意志"の力強さがBメロで顕在化するのだ。いやはや、心憎い、そしてとても自然な構成である。

ここでは、歌とピアノの対話が成立している。歌がこうくればピアノはこう、ピアノがこうくれば歌はこう、という風なニュアンスのキャッチボールが繰り広げられている。とても柔らかい空気と、堅くて冷たいピアノの音色が、まるで薄いオーロラを冬の夜空に棚引かせているかのように折り重なってゆく。冬の夜は寒いよね。

オリジナルのヒカルのStay Goldはピアノのフレーズがガッチリと楽曲の骨格を固めている為、広がった風景は固定されていて、その中で様々な出来事が起こるような感じだが、彼のそれは人と夜空が対話して、その返答如何で天候が僅かに変化するような"ふわりとしない冷たいやわらかさ"がある。言葉で表すのはとてもむつかしいが、聴いてもらえれば伝わると思う。

そんな、かなり異なる両者の音作りがともに最終的には冬の夜空に雪が降るような似た情景を浮かばせるのだから不思議だ。どちらもオリジナルと言いたくなるほど、両者はそれぞれに独自の世界を築き上げている。正直、2人それぞれのテイクを仮に同時に初めて聴いたとしたら、僕はどちらがカバーでどちらがオリジナルか区別がつかないかもしれない。それ程迄に秀逸な大橋トリオによるカバーである。も一回聴こ。