無意識日記々

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見た目に聴く耳を持つ話

travelingのDVDシングルの売上は驚異的であった。「CDシングルではありません」の文字に気づかずに買ってしまった人が当時どれ位居たのかは知らないが、MTVが全く定着しなかったこの日本でミュージック・ビデオを大ヒットさせたのは企画外であった。

時代の流れは早い。2005年にYoutubeが登場して以降、映像は全世界的に手元で気軽に見れるものとなった。2012年に桜流しのDVDが発売された時には私なんかアナクロさすら覚えたものだ。10年でこれだけ変わるのである。

凄いそもそも論として、"音声だけ"というコンテンツには不自然なものがある。単純に、「その音を聴いている間目はどこを見ていたらいいんだ?」という疑問が拭えないからだ。記録や通信の様式と音の物理が似通っていた為映像コンテンツよりも音声コンテンツの方が先に盛り上がったが、結局は技術的な都合だったので、ラジオは音声だけでなく映像も伝えるテレビジョンにその座を譲る事になる。

ヒカルがミュージックビデオを重視しているのは明らかだ。先に触れた桜流しのDVDしかり、シンコレ2のGBHPVDVDしかり。こちらでは映像監督まで務めた。

音楽にとって映像のありかたは、変化しているようで変化していないような、そんな感じの今である。伝えるのがテレビからYoutubeに移っただけで、ミュージックビデオ自体のあり方はそこまで変わっていない。ただ、つまり、昔ながらの「音楽と映像の乖離」は、あんまり埋まっていないように思える。

私などは最初っから「演奏風景にしときゃいいじゃん」と思っているのであんまり問題意識はないのだが、今の若い人たちが果たして音声のみのコンテンツを面白がってくれるのかと思うと確かに心許ない。ラジオを聴く事に慣れている私などは最早今更で、寧ろミュージックビデオは殆どの場合邪魔ですらあるのだが、そういうのも育ってきた環境次第だろう。

ただ、新しい世代でも「打ち込みの音楽」に慣れ親しんでいれば視覚情報は要らないのかもしれない。生演奏には必ず演奏風景というものがあるが、打ち込みの音楽には、生まれつき視覚情報が伴わない。純粋に音声だけの"情報"として生まれてくる。こういう概念的な存在に小さい頃から慣れ親しんでいれば、音楽は終始"頭の中に鳴り響くもの"として受け止められるだろう。

今や生演奏も打ち込みも等しく扱うようになったヒカルが、宇多田光として次にどのような映像アプローチをしてくるか、或いは何もしてこないのか。今のところ予想は全くたたない。出来れば今彼女がどういったメディア、プレイヤーでコンテンツと接しているかが知りたいものだ。まずは、それの影響を受けるだろうからね。