無意識日記々

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「目ぇ瞑ってた方がマシ」

ヒカルがああやって発信を始めるとこの日記は更新しなくてもいいような気がしてくる。ヒカルが居ない時にあーだこーだと隙間を埋めてるようなもんだからな。いやまぁでも、もう一つ、「i_さんの消息を知らせる」という役割もあるからその為にも何か書いとくか。コイツは油断したらすぐ数ヶ月くらい音信不通になるからな。


どうにも、ミュージックビデオアレルギーというのがおさまらない。出来不出来以前に、その文化自体に未だに馴染めていないらしい。MTVとそんなに歳変わらんのやけどなぁ。音楽に音のでどころ以外の映像をつけるのに抵抗があるのだ。

逆ならいい。標題音楽で「この場面は山脈に朝陽が差す様子を表現している」というのなら、その絵を添えるのは建設的だ。わかる。しかし、大半のミュージックビデオは、音楽を作品の素材として扱っている。中には、自分の映像表現の為に曲を無視しているケースすらある。JUDAS PRIESTの"Painkiller"なんてそれはもう酷いもんだった。あれならまだ"Hot Rockin'"の方が笑えるだけまだマシだ。いやどっちも惨たらしいけどね。

話が逸れた。ヒカルの曲に映像をつける、となれば歌うヒカル一択でそれ以上の映像など無い。それ以外をするのであれば、うーん…。

ミュージックビデオというのは作品として全く曲とは別のモノだという割り切りが必要だ。曲は作品を構成する素材のひとつに過ぎず、別に映像と音楽は連動していなくても構わない。要は人の目を引けばよいのだ。まずは曲の存在を知ってもらって、それから好きになって貰えればいい…

…言ってて虚しい。心にも無い事。いや、そこまで業突張りでもないと思っている。別に、自分の思い浮かべる風景を具現化して欲しいとか必ず歌詞に沿っていなくてはならないとか、そこまでは言っていない。ただ、「目を瞑った方が体験として良質だ」と思わせない程度の映像にはして欲しい。意味無いもんね。

新しい『花束を君に』のビデオは、音を消して眺めるのがお気に入りだ。『涙色』が無色透明だというからモノクロ映像にしたらしいが、そのトーンは曲調と合っていない。しかし、映っているヒカルはどこまでも麗しい。なので、歌は歌で目を瞑って聴き、映像は映像で『花束を君に』の音声を消してただひたすら眺める、というのが私のこのミュージックビデオに対する楽しみ方だ。別に映像として優れていない訳じゃない。歌に対してプラスになっていないだけである。そりゃ昔(今でも同じ気持ちだけど)「ヒカルの寝顔を2時間撮影したDVDが発売されたら即買う」と名言した私なので、「ずっとヒカル」というビデオの価値は非常に高い。配信も即購入する。しかし、やっぱり音は消す。そうか、他の歌を流すのもいいな。『海路』とかどうだろう。『誰かの願いが叶うころ』も合いそうだ…ってそっちはオリジナルのミュージックビデオでいいか。そう考えると、つくづくキリヤンは優秀だったなと。

彼こそ、性格的に「宇多田ヒカルの歌なんか俺の作品を世に知らしめる為の踏み台に過ぎない」という態度で挑んでいそうなものを、きちんと曲の世界観を把握していた。『FINAL DISTANCE』を初めて観た時のインパクトたるや。しかも、彼は毎回ちゃんと「KIRIYA KAZUAKI PRESENT(-S/-ED/-ATION...)」と宣言していた。宇多田ヒカルの歌を扱ってはいるが、これは俺の作品であると。責任をもつと。潔い。

ミュージックビデオがプロモーション上重要なのは百も承知だ。しかし、「目を瞑っていた方がマシ」とまで言われたら流石に悔しいんじゃなかろうかとも思う。出来不出来以前に、そもそもミュージックビデオ文化に馴染めていない人間の感想なので無視して貰って構わないが、「目を瞑ってた方がマシ」というのは、比喩や皮肉や悪口ではなく、実際に私がとっている価値判断と行動なのだという事はちゃんと付け加えておく。一応、健闘を祈る。