無意識日記々

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好きで好きでどうしようもない

幼い頃から「お弁当」というコンセプトが好きだった。食糧という生々しい存在が四角く整った「箱」に収まっているなんともいえないおかしさみたいなものが幼心を擽った。たぶん同じ理由で「制服」も好きであった。制服フェチまではいかないが、生々しい肉体が整然とした衣服に囲まれているというコントラストがよかった。今だとZABADAKの「秋」かな。胸を締め付けるどうしようもない程エモーショナルな旋律の数々を理路整然とした曲展開の中にひとつひとつ当てはめていって13分を構成する組曲「夏秋冬春」の第2楽章である。よくもまぁこれだけ次から次へとメロディーが出てくるなぁと感心する一方、冷静に旋律同士を紡いでいく態度にもまた感嘆する。構成だけでメロディーが弱い訳でも、エモーショナルなだけで構成力がない訳でもない。両方である。

その、私の「熱情と冷淡の同居好き」のルーツを思い出してみると、あれだ、「人造人間キカイダー」だわ。幼稚園児だったのでどんなお話だったかは覚えていないが、兎に角そのデザインのコンセプトが好きだった。半分機械、半分人間。冷徹で機械的な側面と、熱血で肉体的な側面をそのまま融合させ視覚化したアピアランスは、こども心に強烈だったものだ。それ以上にビジンダーのミニスカ白ブーツのエロさの方が記憶に…いや、そんなことはな…あるかな…。

そういった、機械と人間、直線と曲線、線形と非線形、予測可能性と予測不能性、それらが半々に混ざり合ったものを好む嗜好は今も変わらない。Hikaruの音楽にも、確かにそういうものを求めているし、実際そういう側面が強い。特に「EXODUS」は細部までコントロールされた理詰めのインストゥルメンタルにエモーショナルでどうしようもなく生々しい女性ヴォーカルが乗るというサウンドで、どこまでも私好みのサウンドだった。ああいうのが、私の言う「人造人間キカイダー的バランス」なのだ。

だから、Hikaruには、これからも生楽器だけでも打ち込みだけでもない、両方を掛け合わせたサウンドを追究して貰えたらな、なんて贅沢をたまには言ってみる。ライブも面白くなる。予めスケジュールされたマニピュレート・トラックと生の即興演奏の激突とかね。色々と想像は膨らむ。

そういう意味では、ひさひざにHikaruの"サイエンティフィックなアティテュード"にも触れてみたいなと思ったり。ただ、あんまり"機械"そのものには詳しくなさそうなので、どちらかといえば"分析的アプローチ"と言った方が的確かもしれない。如何にヒカルが歌詞を理詰めで構築しているかを知っていれば、わかって貰える事だとは思うけれど。

一方で勿論、"文学的アプローチ"も忘れないで欲しい。人間のもつ"どうしようもなさ"を描くのが文学だ。運命に翻弄され、自由に見放され、情熱からも背を向けられてなおまだ死んでいない"人"。ぞっとするような虚無と絶望の中で肉体だけが浮かび上がってくる嫌悪感。人間活動を通してしっかりした社会人になって帰ってきてしまうとそういった側面はもう外からは見られなくなってしまっているかもしれない。10代だから"For You"のような曲と詞を書けた、という見方も出来る。セラピーが必要な局面を、その為だけに求めようという態度にはウンザリするが、しかし、それでもどうしようもないのが人間だ。果たして、"ダメ人間・宇多田ヒカル"も帰ってきてくれるのだろうか。それもまた、楽しみである。

…そういえば私は制服フェチというより素肌Yシャツフェチだったような…HEART STATIONのアートワークとかごちそうさまとしか言えませんでしたよ、えぇ。(←ほんと、どうしようもないなこいつは)