無意識日記々

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桜とSAKURA

「やるせない」を和英辞書で引いてみると「cheerless, disconsolate, dreary, helpless, inconsolable, miserable, uneasy, wretched」とある。それぞれ、「意気の上がらない、慰めの無い、侘びしい、どうしようもない、慰めの無い、不幸、難儀、惨め」という意味なのだが、さて、桜流しに出てくる「やるせなきかな」を、Hikaru自身がどの英単語に訳したか皆さんは覚えているだろうか。

答は「helpless」、そう、「どうしようもない」だ。

そういえば、同じく桜の散る歌に、『好きで好きでどうしようもない』という歌詞が出てきたなぁ、という連想は容易にはたらく。

対照的である。桜流しでやるせないのは『見ていた木立』の方だ。つまり、"動きたくても動けない"と。一方、SAKURAドロップスの『好きで好きでどうしようもない』は、『どうして同じようなパンチ何度も食らっちゃうんだろう それでもまた戦うんだろう』という事だから"どうにも止まらない"という意味なのだから、どうしようもなさはまるで逆の方向を向いている。

また、細かい話だが、Hikaruによる『見ていた木立の遣る瀬無きかな』の英訳は『The trees stood by, Helpless』だ。どうやらhelplesslyではないらしい。lyがつくと「木が、どうしようもなさそうに生えていた」という風な意味になり、lyがつかないと、「木が生えている。何ともやるせないことだ。」という風になる。本当に些細な違いだが、Hikaruは「何とも〜」のニュアンスを採用した。無力感に苛まれているのは直接、この歌の主人公であり、その情景として木立がある。

その順序だと、つまり、歌の中で静的な植物と動的で流動的な人間という対比があり、その間を繋ぐ比喩として「散る桜/落ちる花びら」があるという事になる。

SAKURAドロップスは、一度花を散らしてもまた翌年美しい花を咲かせる桜の木の"めげない生命力"を比喩として人間賛歌を歌っていた。一方桜流しでは、人間自体が咲いて散り流されていく桜の花びらとして描かれていて、まさにその事が揺るぎない木立との悲しい対比として描かれている。まさに正反対の比喩として桜とSAKURAは描き分けられている訳だ。その対比が最も鮮烈なのが『どうしようもない』と『遣る瀬無きかな』という、一見同じ意味の2つの単語なのである。従って、この2曲を並べて聴くと、桜流しの描く痛切な絶望が如何に深いかがよくわかる。その感情をベースにして『私たちの続きの足あと』と『愛』の言葉を耳にすると、希望の光がどれほど尊いかを痛感できる。春も終わり初夏の日差しが照りつけ始める中、今一度この2曲を聴いてみる事をお薦めする次第であります。