無意識日記々

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じしんのはなし

今朝の日記の最後の一言でもわかる通り、ここでは「もしこうだったらこうなるだろう」とか「仮にそれを求めるならそっちに行くのが必然だ」みたいな、仮定に基づいた話の仕方をする事が多く、それは別に私が私としてそう思っている訳ではない。そこらへんの区別が必要である。

私は別に、ヒカルに市場を背負って欲しい訳でもないし、姐さんポジションに収まって欲しい訳でもない。売れて欲しい訳でも売れなくなって欲しい訳でもない。売れれば嬉しいし、売れなければぐぬぬだけれども別にそれは大した問題ではない。というか、他のもっと大事な事の前では誤差みたいなものだ。

自分がもっと大事に思う事といえば…光の心身の健康がまず第一に思い浮かぶかな。そういう時「医者になっときゃよかったかな」みたいな柄にも無い事を考えたりもする。えぇっと、他は何だろうな…結構どうでもいいかも。

しかしやっぱり、歌を聴いて何を感じさせてくれるか、というのはかなり大きい。人間活動に入った後私個人の熱量が途切れる事が無いのは、桜流しの影響がとても大きい。「この一曲で一年は大丈夫」とか当時書いた気がするが、過去に生きてるんじゃないか俺はと悩みたくなるほどこの歌は私にとってまだまだリアルである。そういえば先月のオフ会で「今いちばん気に入っているのは桜流し、二番目に気に入ってるのが桜流しのインスト」と言ったら微妙な空気が流れたが、私は至って本気というか、実感に即した正直な気持ちを述べたつもりだ。いやほんませやって。

例えば、私が年間で宇多田とかHikkiとか書く回数は2000回とか3000回とかである。いやもっとか。兎に角、世間の事はそんなに関心がないし、最後の新曲から二年以上が経過しても"今最もホットなミュージシャン"のうちの1人である。その上で、いやその下で、かな、相変わらずこの人のファンであるから、何と言うのだろう、どうしたってこうなる(笑)。関心が途切れるという事がないのだ。何なんだか。私がそういう人だというだけなんだが。


なんていう事を書いているのは、きっとこの四年間で離れていった人も多いんだろうなぁと思う事に妥当性があるのかな、と少々疑問に思ったからだ。2010年の時点で熱心だった人がそこから離れたりするかな?と。まぁ、ようわからん。ここに来てこれを読んでいる時点で明らかに貴方も私と同様熱量を持て余してる位なはずなんだし、視界に入ってこない人の事を思うのはかなり難しい。

寂しい、とかとは違うし、例えば次に復帰した時に戻ってきて「待ってたよ〜」と宣う人に違和感を感じる、という事でもない。なんだろう、"時間が経っていない"感じがするんだ。歳をとらない、という意味ではなく、宇多田ヒカルというイディオムが全く変わらないような。宇多田光さんは日々刻々と変化してらっしゃるでしょうに。


ああ、つまり、私の"希望"は、「少しヒカルに飽きてみたい」なのかもしれない。「飽きたい」のではなく、「〜てみたい」なのが重要だ。それがどんな感じなのかわからなくなっているから、どんななのかを"知りたい"のであって、"そうなりたい"のとは訳が違う。

しかし、その"希望"ってまるで、「死ぬってどんなだろう? 知りたい。一度死んでみようかな? いやいや、何を言ってるんだ。馬鹿な事を言うな。」というヤツに近い。本当に今夜は無駄な事を書いた。やり方は変わっていくかもしれないが、多分一生この熱量は変わらないのだろう。寧ろ私にとっては、この熱量を維持する事より次の1日を生きる事の方が遥かに難しい。取り敢えず生きてさえいれば、私はこう在れるのだ。これを自信と言うのかな。