無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

映像表現のタイミング

ヒカルがピノコ役で出演した「ブラックジャック」はFLASHアニメだった。体裁としては「音が出てキャラが動く紙芝居」という感じで、今見返せばこんな"お気楽な企画"に誰を声優として起用しようがどうという事もない気がするが、手塚治虫へのリスペクトを考えればヒカルにとって貴重な経験になった筈だ。

あれから14年が経って、今やアマチュアでもFLASHアニメはなかなかお目にかかれない。いやそれは言い過ぎだけれども、MikuMikuDance等で直接3Dモデルをアニメーションで動かせるのだから潮流としては随分"進化"したものだなぁ、と思う。CGアレルギーなる症状も、今後は益々減っていくのではないか。トップのピクサーのみならず、それこそ日本の30分アニメでもCGの威力はまだまだ伸び続けている。最早手描きのアニメとCGとで争う段階ではないようだ。

HikaruのPVは、もう長らくCGに頼っていない。EVAやFREEDOMといった"もうガッツリアニメ"かヒカルがそのまま登場するかの二種類に別れている。紀里谷時代、或いはFluximationの頃はCGアニメーションも大胆にフィーチャーされたりしていた。

タイミングが少し妙だったのだ。これから活動休止します、と言いながらオフィシャルチャンネルを開設し、初の映像監督を務めた。ヴィジュアル面の活性化は"これから"だった筈なのだが、スッとそこで途切れた。

桜流しは非常に変わったパターンで、特にBeautiful Worldの扱いが長年宙ぶらりんだった為そのキッパリしたコンセプトは異彩を放った。タイアップと直接は無関係な映像美は楽曲単独での世界を描き出していた。良し悪しは別として、それはEVAとは無関係な「宇多田ヒカルの新曲」だった。なのにヒカルの姿はなかった。

桜流しが、もし普段の露出を伴ったタイミングのリリースだったらPVはどうなっていただろうかと考える。ヒカルは姿を見せて歌っていただろうか、それとも今のまんまだっただろうか。たらればを考えても仕方がないのだが、今後のヴィジュアル・コンセプトを予想する時、その峻別は意味をもつ。

最初の5枚のオリジナル・アルバムのように、今後もジャケットは顔面でいくのだろうか。こちらとしては嬉しいが、ヒカルとしてはどんな気分なのか。配信が増加し、ジャケットはアートワークというよりアイコンになった。Youtubeも、パソコンでの視聴からスマート・フォンやタブレットでの視聴に移っている。小さい画面に対して顔面押しはわかりやすさの面で正しい選択だろう。

一方で、映像作家としては大きな画面で観て欲しいだろう。音楽家ハイレゾでの観賞を勧めるように。


タイミングは大きい。ヒカルがその時期どういう立場か。どういう気分か。映像技術の進歩とコスト。消費者の観賞メディアのサイズ。いろんなステップが絡み合って映像体験の質が変化する。映像の作り手側にも、速い/遅い両方に対するスピード感が求められる時代である。