無意識日記々

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音に言を混ぜたもの=言から音を選んだもの=歌

つやちゃんさんインタビューの方にも引き続きツッコミを入れていくぞ。

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ーー音楽に言葉が乗る/言葉を乗せるというのは、改めて考えると非常に不思議で、横暴なようにも感じます。そもそも音楽に言葉を乗せなければいけないというルールはない中で、ご自身の音楽に歌詞をつけることの違和感や引っかかりはありますか?

宇多田ヒカル:私は、言葉を音楽に乗せるというのは凄く自然なことだと思います。言葉自体にピッチもリズムもあるから、今私がこうやって喋ってるものも、録音して音楽をつければもう歌になる。言葉と声自体にも音楽の要素があって、その伝え方(の違い)ですよね。

(中略)

言葉をどう届けるかというのは同じですよね。横暴とも思わないし、昔から人間がやっていることだし、凄く自然なことだとは思います。私が書いた歌詞を読み上げるより、歌った方がはるかに伝わるわけで。言葉と音楽をあまり分けて考えていないですね。

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「横暴なようにも感じます」『横暴とも思わないし』と、つやちゃんさんとヒカルの見解が真っ向から対立したカタチだが、これ、どちらの言い分もよくわかるのよねあたし。

歌詞の無い、器楽のみによる音楽というのは本当に純粋だ。あたしも疲れた時にはすぐにLIQUID TENSION EXPERIMENTを聴きたがるのだけれど、インストのみというのはまさに「楽園」のイメージで、秩序だった美のみがそこに在る。言語の機能を捨て去ったその空間は、外部からの何にも煩わされる事が無く、ただその音楽世界のみで閉じて成立してくれる。その純粋さにどれだけ癒されることか! 一方、言語とは連想なので、音楽に歌やラップや朗読などの言葉が混ざってくると、我々の脳は即座に想起や連想を働かせて、たった今目の前で奏でられている純粋な音だけではない、外側に広がった世界にアクセスしようとする。その“外側”とは自分の過去の記憶だったり経験だったり想像だったり妄想だったり、はたまた社会の中の出来事だったり流行や風俗だったりもする。それはとても猥雑で生々しい。そんなものが純粋な何かを“邪魔”してくるだなんて、横暴というか傲慢を感じても仕方がないのかもしれない。

つやちゃんさんは普段沢山音楽を聴いているのだろう。その中で、器楽演奏の純粋さに魅了され癒されているのではないだろうか。そこに言葉が混ざる事で純粋さが損なわれ魅力を失う一方で、しかしそれによって新たな訴求力を獲得しより多くの人々に届いていく。そこの利点に躍起になって純粋さを蔑ろにして歌を躊躇わず作り送り出す態度を煩わしく思うのではないか。つやちゃんさんは、「音楽が先にあって、そこに言葉が邪魔臭く混ざり込んでくる」と捉えているのだ。

ヒカルは全く真逆に、言葉の方から物事を捉えている。ここでいう言葉とは話し言葉の事で、恐らく書き言葉より話し言葉の方が、人類の歴史上では先に登場した筈だということになっている。その為ヒカルは、話し言葉というものをよりプリミティブに(原始的に)扱っているようだ。

言葉の方から見れば、それは常に総てが音であるから、既に初めから音楽と繋がっているのだと。

ここで、なぜ「話し言葉には音程が無いのか?」という点について注釈をつけておきたい。これは実は結構難しい。音程というのは音の高さとその変化のことだが、人が言葉を話す時に我々は躊躇いもなく「あの人の声は高い」とか「低音ボイスの囁きがカッコイイ」とか言えてしまう。話し言葉の音にも高さや低さはちゃんとあるのだ。ではなぜそれがドレミファソラシドの音に当て嵌る事がないのかといえばそれは「音程が無い」のとは全く逆で「常に総ての音程が混ざっている為、一定の高さの音に定まって聞こえてはこない」からである。話し言葉の声の波長というのはドもレもミもファもソもラもシもどの音程も同等に混ざり合っている。その「どの音程も在る」状態のことを我々は「音程が無い」と呼んでいるのだ。

では、「音程のある言葉」=「歌」とは何なのかといえば、例えばラの音を声として出す人は、さっきまで話し言葉の中で出していたドとレとミとファとソとシの音を“出さなくなった”人なのだ。出していた殆どの音を引っ込めて、特定の高さの音程のみを発声することで、歌は歌らしくなる。それが連なって変化してメロディーと呼ばれるものが生まれる。

この事を知っていれば、「歌」というのが「話し言葉」の中の(ちょっと変わった)一例に過ぎない、ということがよく理解できるかと思われる。ヒカルは、そういった見解に基づいて、話し言葉を、音楽を、歌を眺めているので「先に器楽演奏があって、その上に歌詞を載っける」というつやちゃんさん視点からの“横暴”なんかの感想は生まれてこないのだった。

まとめとこ。

つやちゃんさんは(ここでは)「歌」を「音楽に言葉が混ざったもの」と捉えているのでそれを不思議がったり時に横暴なものと捉えたりする。純粋なものに不純物が混ざるようにみえるので。

ヒカルは「歌」を「話し言葉のうちのひとつ」と捉えている。そもそも言葉を話すとは音を出す事なので最初っからリズムや音程の“素”はちりばめられている。「歌」とはその中から特定の“素”を取り出す作業なのだと。

どちらの見方もそれぞれの局面で有用だろう。だが、人類史でみるならば「音楽」より「歌」の方が先にあった可能性が高い。特定の波長を奏でる“楽器”を製作するより、もって生まれた“喉”を鳴らす方が容易だろうから。

わたしなどは結構過激派で、「ヒトは話すより前に歌っていた」という説に共感を覚えたりもする。つまり最初にヒトは歌を歌っていて、そのうちその機能性に気づいてより洗練された「言語」というものを作り上げていったのではないだろうかと。

なので『ぼくはくま』の

『しゃべれないけど うたえるよ』

の一節は、人類の進化をみたとき、そして、人一人の成長を考えた時、極めて自然に出てくる段階を表象しているのではないかと私は考えるのですよ。いや、人じゃなくてくまだけどねこの歌は。このちょっとしたフレーズにもヒカルの哲学が色濃く反映されているかもしれなくて、この歌を童謡だからと軽んじてみている人は大いに反省して欲しいところでありますよっと。「歌」の真髄が、歌われているのですから。