無意識日記々

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インタールードでないインストゥルメンタルを。

ヒカルのインスト曲が聴きたい。歌のカラオケ・バージョンも聴きたいけれど、そもそも歌の乗ってない純粋な器楽曲の方をね。

どうにも、インスト曲が封印というか忌避されている感。2016年の『Fantome』収録の『忘却』も元々インスト曲として制作していたのが却下されて歌入りラップ入りとなったらしいし。でもこれはこれで素晴らしい出来になったのでそれ自体は文句は無い。

でもでも、器楽曲は器楽曲で聴きたいなぁと。

基本的にヒカルの器楽曲はインタールード─間奏曲であった。だが1stアルバム収録のその名もズバリの『Interlude』は一応歌入り&留守電入りで、後に2ndアルバムの『言葉にならない気持ち』に発展したのでこれはノーカウントかな。

その後、漸く3rdアルバムで『Bridge(Interlude)』が現れたがこれもその名の通り前の曲『FINAL DISTANCE』と次の曲『光』の“橋渡し”としての間奏曲だ。『Deep River/深い河』に架けられた橋である。

同じく4thアルバムの『Eclipse -Interlude-』もフレーズを共有する次曲『Passion』への間奏曲或いは前奏曲だし、5thアルバムの『Gentle Beast (Interlude)』も次曲『Celebrate』への間奏曲/前奏曲だ。どれもこれも「歌ありき」なのであった。

これらも勿論素晴らしいしやはりそれ自体は何の文句も無いのだが、ではヒカルが純粋に器楽曲を作ったらどうなるんだろうという興味が尽きないのだよ。

私などは、器楽曲というのは、どこか現世とは違う世界の風景を描いていて、ともすればそこは現世より遥かに豊かな世界なのではないだろうかと感じる事が多々あるのだけれど、これが歌詞の乗る「歌」になった途端に現世と繋がってしまう。それが歌なのだからそれはそれでいいのだけれど、各種のインタールードから感じられるヒカルが観ているその器楽曲の世界の風景は物凄く豊かで、そこだけで完結するものを描いたらそれはそれで大変な事になるのではないかという予感が止まらないのだ。確かに、歌が無い、歌詞が無い音楽への需要というのはぐっと減る。家業として音楽に携わるヒカルとしては需要の薄い器楽曲に精魂を込めるのは躊躇う所だ。勿論、サウンドトラックの仕事が来たらそれはそれで考えるだろうしそれも滅茶苦茶聴いてみたいんだけれども、そういう映像ありきとかのではない、もっと純粋な「器楽曲の世界」を覗いてみたいのでした。あーどんどんワガママになっていく自分がしこたまめんどくせぇ。