無意識日記々

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コンテンツの消費単位1

アクセスする先がフィールド(広場)からネットワーク(個人的人間関係)にシフトしているというのなら、宇多田ヒカルの従来のアクセス方法にとってかなり向かい風である。ファンクラブもコミュニティーも無しにそれこそ毎日揺れ動く"不特定多数"を相手にしてきたのだから。ヒカルが口にする「私のファンになってもらわなくていい、曲ごとに好きになってもらえれば」というのはそもそもそういった曲ごとに価値判断をする主体がある程度の数存在してそこにアクセスする方法が確立されている場合にいえる事だ。今その「ある程度の数存在して」が揺らいでいるのである。

ここはじっくり見ていこう。「曲ごとに価値判断」というのは、消費する主体が曲をコンテンツの単位としてみているのが前提だ。しかし、これ自体もまた揺らいでいる。特定のアイドルなりアーティストなりを追い掛けている人にとっては"消費するコンテンツ"はそのアイドル自身、或いはそのアイドルと関わっている時間であり、曲は単位ではない。GLAYファンは(総体として)発売された新曲がつまらなかったからといって次のツアーには参加しない、なんて事はしない。そういう事が重なれば離れていくかもしれないがそれはGLAYという単位から離れていく事を意味する。実際の所、今の日本で「前のGLAYの新曲が気に入ったから買った。今度のはつまらないから買わない。次のはまたよかったから買おう」というような判断で購買活動をしている人がどれくらい居るのだろうか。売上の推移をみていると、それこそ5万人も居ないよね、という気分になる。彼らが今最高傑作をシングルとして発表したとしても初動10万枚もいけばいい方、というの
が実情ではないか。

実際には沢山のトップ・アーティストが存在する為定量的な分析は難しいが、トレンドとして、ネットワークとコミュニティー…いや、ネットワークとクラスタと言った方がいいか、に依存するプロモーション体制であれば、曲単位よりアイドル単位でプロモーションする方がいい。そういう"仕掛け"を、ヒカルは持っていないのだ。

そもそも、「曲ごとに価値判断する主体」の存在を仮定するところが、言うなれば"高望み"なのである。CD全盛時代からそうだったが、現実には曲自体がコンテンツの消費単位として"主導的"だった時代は少ない。勿論、名前として看板の機能は果たしていたが。

思い出してみると、例えば、少数派の代表例ではあるが、ASAYAN電波少年ウリナリといったテレビ番組はその「バックグラウンドストーリー」と共にCDを売っていた。何枚売れないと解散、とかオリコン何位以内に入らないととか、そういった物語の一部として楽曲が消費されていたのだ。踏み込んでいえば、コンテンツの消費単位は楽曲ではなく、その楽曲を一部として組み込んだ番組、更には番組とチャートアクションを組み合わせたストーリーそのものがコンテンツの消費単位であり、その中で最もマネタイズできる"象徴"としてCDがヒットした、というのがより現実に即した見方だろう。


あれから15年以上が経ち、今はそれに加えてSNSの力がある。そうなると…という話からまた次回。