どこまでをひとつの作品とみなすか、は作り手の意識も受け手の意識も千差万別で、それらが互いに乖離し合っているのが普通ではあるが、それについて自覚的であるか否かは大きな、時として不幸な差異を生もう。
「家に帰るまでが遠足です。」とはよく言ったものだが、寧ろ遠足のピークは『必ず寝不足』になる前夜かもしれない。当日は期待ほどじゃなかったとか、あるでしょう。そういう風に考えると遠足というコンテンツは前日までの準備から無事に帰宅するまでがひとつの消費単位となりえる。
こういうのは人による。前日まで大して期待せず寧ろ憂鬱だったのに行ってみたら案外面白かった、とかいう場合はコンテンツ単位としては当日のみに価値があるだろう。いやいや、前日までの憂鬱との落差あっての高評価なのだからそこも含めるべきだ、という反論もありえる。人それぞれである。
今考えているコンテンツは"歌"についてだが、これも誰がいつどこで歌うかというのが消費単位の評価として重要になってきたりする。オリンピックのNHK番組のテーマソングになったら印象が格段に違う。人気のテレビドラマのクライマックスでかかったBGMは、或いはゲームのラスボス戦のテーマソングは…作られた状況があって楽曲は輝きを増す。
例えば単純に、演歌なんかは前奏で前口上があって「故郷のお母さんを思って歌います、それでは聴いて下さい」と尺ピッタリに歌詞のバックグラウンドを説明してから歌に入ったりするが、これなどは口上とセットで消費単位とみるべきだろう。
兎に角、文脈の置き方でコンテンツの印象はすっかり変わる。であるならば文脈の置き方も含めてひとつのコンテンツだと捉えて批評を加えた方がよい。勿論切り離して考えた方がいいケースも多い。映画館で買ったポップコーンがまずくて食べられたものではなかったとかシートの座り心地が悪かったとかで映画が楽しめなかったからといって映画の評価を下げる訳にはいかない、というのは誰しもわかるだろう。ポップコーンやシートは映画館の責任であって映画の責任ではない。
かといって、現実にはそういった各要素を切り離して評価するのはかなり難しい。今ポップコーンとシートは映画館の責任、と言ったが、厳密にはポップコーンを売った売店の責任であり、更にいえば売店で調理した担当者の責任であり、もしかしたら原材料を育てたトウモロコシ農家の責任かもしれない。いやもしかしたら、食べた人が味覚障害を発症していた可能性も捨て切れない。考え始めるとキリがない。素直に「昨日は楽しめなくってね」で終わらせておけば何の問題もないのだ。そこから踏み込んで批評を加えようとするからおかしなことになる、んだが、今のご時世誰しもが評価を公表する時代だし、寧ろグルメサイトはそれで回っている。批評活動を無視していられる場合ではない。
従って、コンテンツの単位即ち「どこからどこまでが"ひとつの作品"なのか」は事前にある程度周知しておく必要がある、のだが、それ自体を幻惑して楽しませるコンテンツも存在したりして更に話はややこしくなる。「要素を切り分けてどこからどこまでを作品とみなしているか」に対してコンセンサスを事前に取らない事自体がコンテンツのエンターテインメント的重要要素、という自己言及型の例である。ほのぼの4コマのつもりで読み始めたらいつのまにかストーリー漫画になっていた、とかね。予想や前提を裏切る事もまた娯楽になりえるのだ。
そういう事を踏まえた上で、今後どういう風に歌を提供していけばいいのか…という話からまた次回。