無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

コンテクストコーディネイトの話はまた次回

さて「今時のシチュエーション」だが、今までさんざ繰り返してきたように"音楽を聴く"為のシステムがかつてない程貧弱なのだ、今は。そこが痛い。

昔はミニコンポやラジカセなどを皆持っていた。そういうのはそれなりに鳴るものである。しかし、パソコン業界はサウンド面で悉く貧弱だった。たとえばデスクトップパソコンの主流がラジカセみたいなサウンド一体型システムになっていたら、歴史は随分変わっていた筈だ。しかし現実は、そういったパソコンは傍流で、一部の好き者が買うニッチな商品になっている。こういうのは「そういうものだから」と思わせられるかどうかが勝負で、流れとして「せっかくパソコンを買うのに音が貧弱では埒があかない」と皆が思うように仕向ける工夫が足りなかったのだ。そうこうしてるうちにデスクトップパソコン自体が傍流になりノートパソコンが主流になった。と思ってたらノートパソコンも傍流になり今はスマートフォンタブレットの時代だ。

こうなると"ステレオシステム"はリビングの大画面テレビの脇を占めるくらいしか居場所がない。だから音楽DVDは結構売れている。映画と同じような選択肢として見られているからだ。今の時代、しっかりと音楽と向き合って貰うなら映像作品を作らなければいけない。


ここからは女性に嫌われる話になるかな。ヒカルは美人である。しかし、もう今更ルックスの良し悪しでどうこうというポジションでもあるまい。だが、何らかの映像作品で勝負をするというのならフォトジェニックなルックスである事は大きな武器だ。ただ、ここから年齢を重ねていく中でそれに頼った映像作品作りをするのはリスキーだろう。

いや逆にヒカルなら「40歳なのにこんなにかわいいの!?」と言われるようなルックスを保っている事も容易に想像出来る。言い方を変えれば「あと10年は戦える」であろう。

そこらへんをどう捉えるか。ナチュラルなルックスを心掛けるか、或いは、極端に言えばLADY GAGAのようにエキセントリシティやアーティストシップを全面に押し出すか。

ここでも考えるべきは宇多田ヒカルという人の“文脈”である。どんな人生を送っていて、どんな人間性で、どんなイメージで皆から捉えられているかによって見た目の提示の仕方はころころと変わるだろう。

ヒカルがこの5年近く徹底して自分の顔写真を避けてきた事を想起しよう。我々の知るのは結婚写真くらいである。ある意味、今ヒカルは時間をかけてアピアランスに対する先入観をリセットしているのだ。つまり、次どんな見た目になっていても「こうきたか」とそのまま受け入れて貰えるようなニュートラルな、先入観のない状態に。千載一遇のチャンスである。

今までは"音楽家"だから、ファッションはそこまでこだわらないというか、一貫した"宇多田ヒカルスタイル"がなくても構わないというコンセプトでやってこれた。しかしこれからはどうなるか。何らかの映像媒体が、音楽観賞の為に必須な空気が出来上がってきてしまうとしたら、何か視覚面でヒカルのアーティストシップを表明する仕掛けが必要となるだろう。その母親譲りの恵まれた美貌は大きな武器のひとつである。勿論、それを活かさないというのも選択肢のひとつだし、ヒカルのやりたいようにやってくれればいいんだけれどね。