無意識日記々

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「お、おう、、、。」で、いい。

どうにも今年のイチローの「持ち上げられ方」には違和感がある。1994年にテレビでプレーする姿を観て「なんだこれは」と驚愕して以来毎年そのプレイぶりを横目でチラ見してきた身からすれば、そのちやほや感敬われ感がなんだかこそばゆい。

大体、打率が.250付近をさ迷っている長打力の無い外野手が本来ならそうそう重宝される筈もない。本来であれば、カージナルスに居た頃の田口荘のようにユーティリティ・プレイヤーとして扱われるハズだ。まぁ実際ある程度起用方法はそうなっていて、その期待には応えてはいるけれど、いずれにせよ打率は286以上(7打数2安打)は稼がないとレギュラーとして持ち上げられるところまではいかない。

なので今年の報道の「生きる伝説」扱いにはどうも馴染めない。何より、記録の事ばかり囃し立てられて、肝心のプレイの方になかなか注目が集まらない。イチローの醍醐味は、その日のハイライトプレイ集に必ず顔を出す事であった。強肩、堅守、好走塁。そして何より打撃である。様々な状況下において、如何にヒットを"創造"するか。その創意工夫こそがイチローの魅力だった。勿論大記録の数々は素晴らしいのだが、ずっと20年イチローを見て来た身としては毎日のニュースでバッティング&ランニングの妙味を味わわせてきてくれた事が何よりも大きい。安打記録はまさにその積み重ねであるからこそ価値がある。今季はそういう側面が激減している。なのに持ち上げられているのが居心地悪いのだ。

そして、こうやって(余計に、無駄に)持ち上げられるのの何が怖いって、何かキッカケがあれば途端にバッシングに豹変する事だ。どうにも、極端に走る。「誉めちぎる」か「貶したおす」のどちらか両極端しかない。大衆を相手にしているから仕方がないとはいえ、可能ならば「ここはよい」「ここはまずまず」「ここはイマイチ」という風に、1つ々々詳細に評価を加えていきたいところだ。そうなると讃えていいのか怒っていいのかよくわからず、「お、おう、、、。」となるのだが、それでいいのである。現実は割り切れないのだから、まずはそこから始めないと。


当然、ヒカルにも同じ心配がある。取り敢えず誉めとかなきゃいけない村の住民なので、当初は誉められる所からスタートするだろうが、少し売上が芳しくなければ途端に「宇多田の時代は過ぎた」「宇多田でもダメだった」となっていく。こちらからすれば「ちゃんと1曲々々聴いて判断して欲しい」となるが、誉められている段階で、日々のプレイ内容でなく数字によって讃えられているイチローと同じように、歌は聞かれていないのだ。数字を見て「すごいね」と言い合っているだけである。ならば貶される段階でも曲は聴かれず、ただ数字だけで叩かれる。その意味では一貫しているのだから、最初っからそういうのとはかかわり合いにならなければいいのだが、そうもいかず、難しい。

せめて自分らだけは、ヒカルの繰り出すひとつひとつのメロディーに丁寧に耳を傾けて一喜一憂したいと思うのですよ。