「歩きスマホ」って響きも字面も随分と間抜けだなぁ、と思っていたけれどこれが「あるキス魔法」だったら途端にロマンチック(或いは行き過ぎて間抜け)に響くから面白い。王女様の眠りを覚ます王子様のキスですよ。御伽噺の世界だ。
と、柄にも心にもない事を言うのは他でもない、私達は言葉ってヤツを単純な響きだけでかっこよさや間抜けさを判断する事が実は苦手なのだ。或いは、恐ろしく難しいと言おうか。必ずそれが使われた文脈などを加味して響きも価値判断される。意味の世界を離れて純粋に音素だけの印象まで削ぎ落とすのは、母語に慣れ親しんでいればいるほど無理がある。
例えば、個人差も大きいが、大抵の日本人は「英語にするとカッコいい」と思いがちである。ビジュアル系バンドのメンバーは大抵アルファベット、よくてカタカナ表記である。「としくんとよしきくんとひでさんが…」と書いたら多分あのヒット曲は「(母ちゃんがおこづかいを)くれない」になっていたに違いない。響きは全部一緒なのに随分と違う。
裏を返して逆からみれば、実は英語の発音や字面ってそれだけではお洒落でもなければかっこよくもない、という事なのだ。英語をクールだと思うのは文化的な刷り込みに過ぎない。
そして、文化的刷り込みとはそれはもう凄まじい。試しに千円札をシュレッダーにかけてみよう。いや、百円玉をゴミ箱に捨てるだけでもいい。なお、両方とも立派な犯罪なので実行しちゃダメよん。そうすると、なんとも背徳的な感覚が襲う。誰でもである。ぶっちゃけ、その百円や千円が無い事でその後の人生に影響がある人は殆ど居ないだろうが、それでも非常に危うい感覚がそこに生まれる。お金は価値あるものだと徹底的に刷り込まれているからだ。ただの紙、ただの金属の塊でしかないのに。
だから、日本人が英語を一段上の言語だと感じるのを止める事は出来ない。英語が出来ると確かに世間では尊敬されるかもしれないが、海の向こうではそこらへんの洟垂れ小僧でも流暢に英語で喋るのだ、特別な事なんて何もない、と諭しても誰も説得できない。英語を上に見る気持ちは、自分で考え感じたものではなく、文化と社会の枠組みの中で育まれた感覚でしかないのだから。
ヒカルも、英語が出来るというのはキョーレツなアドバンテージである。前も触れたように、「宇多田ヒカルのカラオケ講座」より「宇多田ヒカルの英会話教室」の方が遥かに人気が高いだろう。受験と無関係な世代にすら。歌が上手い事より英語の上手い事の方が感心されているのだ。
しかし、だからといってHikaruが英語の歌を歌ったら日本語の歌より売れるかというと勿論そんな事はないわけで。わかりやすくいえば、これが「英語がカッコいいと思うのは文化的刷り込みに過ぎない」事の証明なのだ。本当に心底カッコいいと思うなら皆Hikaruの英語の歌に飛びつく筈なのだ。カッコいいと思える歌は買うだろうそりゃ。実は本音は「何言ってるか意味わからんからおもろない」、これである。これ一辺倒であると言っていい。
ただ、勿論「なんのことだかよくわからんがとにかくすごい」という初期的感覚の対処が下手な人が日本人に多いのもまた事実で、これは言語の特性とは直接関係のない、人種的文化的特徴だろうかな。生真面目なんだよね。しゃあないけど。
ものを買うとなると本音が出る。しかしその本音も…という話に流す事も出来るが今宵はそうもせず。ではどうやってHikaruの英語曲を受け入れて貰うかという話になるが、無い。無理だと思う。
11年前のEasy Breezyは驚異的なオンエア率で、大ヒット曲と言って差し支えなかった。それは英語を気にしない私のようなタイプが結構居るという事だ。そっちにターゲットを絞るしかない。英語に対して苦手意識のある(最大多数の)人たちを"改革"するのは、しようとするのは得策ではない。文化的刷り込みは、それ程迄にキョーレツなのである。素直に、日本語の歌を歌って歓迎してもらいましょうぞ。