無意識日記々

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"ごきげんよう"終わるんだって?

そうか、来年はぼくはくま発売10周年か。他の曲はともかく、この曲だけは別な筈。なんかやれ。ダヌパに歌わせるのは…まぁだ早い、かな?

その話は流石に来年するとして。キャリアというのは段々積み重なるものだがある程度「忘れる」という事をしなければ今という時間がどんどん希薄になっていってしまう。過去の遺産で食いつなごう、という態度もひとつのやり方だが、それに頼りきりだとなかなかモチベーションが保ちづらい。かといって新しいものばかりでは昔からのファンの反感を買う。結構そのバランスを取るのは難しい。

双方の妥協点として「続編」というやり方がある。歌でも時折"part2"というのがあるが、わからなくもないやり方だが、両刃の剣も甚だしい。大抵、part1の方がよかったと言われがちだし、そもそも大抵part1にはpart1とつけていないから後付け感は否めない。よほどpart1の知名度が低くなければ自滅する。part2によって埋もれていたpart1が改めて評価され直すくらいが丁度いい。

Hikaruもpart2を作った事がある。This Is The OneのAutomatic Part2 だ。これを成功というか失敗というかは難しい。何しろ、part2と言っておきながら曲調に全くと言っていい程共通点が無い。歌詞にautomaticが使われている以外は。それに、立ち位置的にどうAutomaticと繋がっているかもわからない。その時想定していたリスナーの半分はオリジナルの(part1の)Automaticを知らないのだから。2枚目を出したアーティストの1枚目(「EXODUS」)にpart1が入ってなくて「?」となる。

本人は自己紹介のつもりで書いたのだろう。歌詞がそうなっている。そして、日本でAutomaticが「挨拶代わり」の曲になったから、こっち(米国)でも挨拶代わりの曲はAutomaticと名付けよう、そんなノリだったのではないかと推測する。曲調がこんな風になったのはその歌詞の特性と、"automatic"という単語の英語での語感が日本語のそれとは異なる事も一因だったかと。

こうしてみると、Hikaruの"part2"に対する感覚はたぶんファンの感覚とはだいぶ違う。今度の復帰は再デビューのような空気もあるだろうから何らかの曲のpart2も考えられなくはないが、それがいわゆる"続編"となるかどうかは、どうやら聴いてみるまでわからなそうである。