無意識日記々

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Debut Wednesday

あー静かな水曜日の朝だー。

という訳で宇多田ヒカルデビュー17周年を迎えました。1998年の12月9日も水曜日。CDの発売日だから当たり前なんだが、閏年を3回挟むとこういうローテーションになるんだな。

昨日は報道に右往左往した人も多かったかもしれないが、何があろうとなかろうと、まぁいつも通りなだけなのでな。寝不足には注意しましょう。風邪引いちゃうよ。


さて途切れていたM1の話の続きでもしますかね。携わる人たちの目的意識の違いによってどのような結果が起こり得るかのケース・スタディとして取り上げてみたのですが。

勿論これはミュージシャンにも起きる事だ。例えばテレビ番組に出る、ミュージック・ステーションに出る時に番組全体の構成まで考えている人は殆ど居ない。皆自分の出番で精一杯だ。制作側もそのつもりでいるだろうから何の問題もないのだが、もし制作側の「番組全体でいいものにするにはどうすればよいか」という問題意識を共有して番組出演するなら、振る舞いは違ったものになる筈である。

これは、フェスティバルなんかでも同じだ。ヘッドライナーがフェス全体の事を考えるか否かでだいぶ違う。現実には、余計な事を考えずにショウ自体に全力投球すればいいのだが、どこかで誰かが全体の構成を考えていないと、物事はまとまらない。極端にいえば、出演者全員が「いいフェスにしよう」と願って行動するなら何か違う結果になるだろう、と。


ヒカルは、次、どのスケールでどうしたい、というビジョンはあるのだろうか。いい曲が出来ればそれで、なのか、アルバムがいいものになれば、なのか、来たるべきライブ・コンサートに焦点が定まっているのか、そういった総てを網羅して「充実した音楽家生活」を送りたいのか。別にどれでもいいのだが、適切な設定を施し、自覚し、それに適した行動をとれないとM1のように瑕疵(番組的にピークにくるべき最終決戦が盛り上がらなかった件)を残す事になる。それはヒカル自身でなくてもいい。周りの誰かが適切な意図把握が出来ていればよい。「いきあたりばったり」が身上な為色々と難しいだろうが、ここは「大人なHikki」を見せてくれてもいいのではないだろーか。