無意識日記々

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近づいても離れても同じ大きさ

いつもだとヒカルの新曲が解禁されようものならその日のうちに10回リピートするのが通常だったが、今回は敢えて力を抜いて、とと姉ちゃんNEWS ZEROを観る一回だけ聴くようにしている。週末は歌詞を書き取りたくなるかもしれないが、両方とも字幕があるのでミュートして書き写そうかな。

という抑えに抑えた聴き方をしているにもかかわらず、気がついたらヒカルの歌声が脳内をループしている。自分から思い出そうとしなくても勝手に浮かんでくるのだ。このレベルまで来ると最早“気持ち悪い”。

しかし、ここまで中毒性を持つ曲でも、今の御時世、売れる気がしない。2曲とも、ね。なんだろう、大ヒットの匂いがしないよね。

多分、ヒカルの復活に“J-popの復権”とか“市場の活性化”を託していた向きは今頃ガッカリしてるんじゃないか。もっとハッキリ言えば、この2曲はJ-popの文脈で語れるような楽曲じゃない。宇野さんは「2016年の宇多田ヒカル」を描けない。残念ね。売れ線からは程遠く、商業的な匂い、産業音楽的な人工臭、そういったものからは遠く離れている。

一方で、桜流しに感動した向きにはこの上もない贈り物だ。2曲とも、ピアノの音色が“あの続き”を暗示させる。『私たちの続きの足音』と共に叩かれたピアノの旋律に導かれて、3年半越しに次のステップに確実に進んだ手応えがある。本当に、しみじみ、いい歌だなぁと思う。なんともいえないじんわりとした充実感がある。私の感じとしては、諸手を上げて大声で「おかえりHIKKI〜!!」と叫ぶよりかは、ほんのちょっとだけ拳を握り締めて「……………よし。」と小さく呟きたい気分。歳とったのかな。

ただ、なんていうんだろう、売れ線ではないからといって、難解だとは思わない。確かにメロディーラインはよくよく聴いてみれば異様なのだが(歌ってみた人はわかるかと)、纏め方が奇跡的に巧いので、聴いた印象としては途轍もなく優しい。

その包容力は、宇宙の幾何学すらも歪ませる。曲とは本来、距離の取り方で違って聞こえるものだ。ポップスはBGMとして何気なく聞き流すとほどよい気分にさせてくれる。集中してヘッドフォンで聴いても(技巧的な部分に興味が無い限りは)「あれ?なんで俺これに力みかえってるんだ?」となる。一方で一部のクラシックやジャズ、プログレなどは、こっちが気合いを入れて音に集中して漸く伝わってくるような「敷居の高い」「こっちに来ないままの」音楽になっている事もある。良し悪しではなく、それぞれ生活の中で役割が違うだけだ。

絵画でもそうだ。遠くから眺めていたらなんて素敵な風景画だろうと思ってたのに近くでみたらとんでもなく雑だったり、或いは逆に遠景だと単純な図形に見えていたのが細部をチェックし始めるとその偏執狂的な意匠の凝り方に唖然とさせられたり。作品は、対象としての距離感によって印象が変化するのが普通なのだ。

それだというのにヒカルの新曲は、どんな集中力で聴いても同じ印象を与えられている。すらすらと聞き流しても、一音も聞き逃すまいと集中して聴いても、同じだ。距離感によらず同じというのはまるで月や太陽を見ているかのようだ。月からはどれだけ逃げても一切距離が変わらない。いつどこで見ても同じ月だ。似たような事が今、ヒカルの新曲で起こっている。

その上で、だ。前に書いた通り、この歌は聴き手がまるで正反対の解釈をし合っていても大丈夫なのだ。どちらも正解。なんなんだこれは。やっぱり怖い。もうずっと傍に居て離れない感じ。この歌たちを嫌いな人たちの人生を、大変気の毒に思う。自分は好きになれて、本当によかったです…。