無意識日記々

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現在が過去を変えた話

『人魚』のタイアップが決まったのか。"大エルミタージュ美術館展"テーマ曲、ってのが何の事かよくわからないのでのちのち触れていきますかね。ひとまず、アート系のタイアップなんて思いも寄らなかったので毎度同じな感想「梶さんの営業力凄ぇなぁ…」しか出てこないよ(笑)。ほんと、よく見つけてくるよねぇこういうファンが喜びそうなタイアップ。有り難いですよ、えぇ。


では、『人魚』についての話などを…という気分に。なぜか。ならないので。他の話をしよう。


花束を君に』はヒカルの復帰を代表する・象徴する楽曲となった。非常に単純にいえば、刷り込みである。雛が生まれて初めてみた物体を親と認めるのと同じように、皆が復帰のニュースとともに耳にしたのが『花束を君に』だった。その為、これが帰ってきた宇多田ヒカルを表す曲として認知されたのである。

ヒカルはいつものように、"楽曲の作風に合わせた歌い方"をしただけだったのだが、それが「宇多田ヒカルがいつもと違う歌い方をしている」とはならずに「宇多田ヒカルの歌い方が変わった」になったのもそれが故だ。少ない情報に基づいた倒錯ではあるが、別に間違っている訳でもない。今までにない歌を書いたから今までにない歌い方になった。その事実を指摘している事にはかわりないのだから。

その後、『道』が発表される事によって「なんだ、昔通りの歌い方じゃん」とならなかったのもまた興味深い。『調子に乗ってた時期もあると思い・ます』みたいな如何にもヒカルなフレーズも飛び出す訳だから寧ろこれで「宇多田ヒカルが帰ってきた」となってもよかったのに、ならなかった。それは、勝手な推測だが、『花束を君に』で「宇多田の声が変わった」という認識が余りに強すぎた為、それを修正する回路の居場所が無くなってしまっていたのではないかと。

一方の私の方は、既述の通り、新曲を聴く事で、何と旧曲の聞こえ方が変わってしまった。ヒカルも言ってる通り、語尾をはじめとして「歌い方の雑さ」が気になって仕方無くなったのだ。こんな、過去の、勿論音自体は何も変わっていないトラックが違って聞こえるようになる経験は生まれて初めてで、未だに戸惑っている。「本当に昨日まで聴いていたのと同じトラックなのか?」と疑心暗鬼になる程だ。カルチャーショックとかゲシュタルト崩壊とか、そういうレベルの衝撃である。

それは本当に、「宇多田ヒカルの歌い方が変わった」のが原因だ。『花束を君に』が「優しい歌い方になった」「母性を感じさせる声」といった評価を得た一方で、もっとドライに、言葉の発音の仕方自体が進化したのだ。それは、紛れもない事実である。少なくとも私にとっては。それを気づかされたのが過去曲を改めて聴いた瞬間だったというのが、印象的だ。