無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

通り過ぎない通り雨に濡れながら

手強い。『真夏の通り雨』は本当に手強い。

今まで何度も書いたしこれからも何度も書くだろうが、自分の人生で出会った日本語の「歌詞」の中でも紛れもなく最高傑作である。宇多田ヒカルの歴史上でも、最も歌詞に傾倒傾注した楽曲。歌詞に全振りである。

どれだけ手強いか。これほどまでに豊かな内容に触れておきながら、未だに実感を持って「自分が日本語を解する者でよかった。日本人でよかった。どうもありがとう。」と言い切れないのだ。勿論、自分の中にそのような気持ちは存在するし、事実たった今そう書いたばかりなのだが、気持ちが全く追い付いていないのだ一言で言えば、怖い。本当に、手強い。

正直、もう自分が生きてる間にこの歌の凄さを全部受け止め受け取れ受け入れ切れる自信が全く無い。もっと自分が若かったら、自分自信の容量を自らの成長と共に拡張していこうという気分も持てたかもしれないが、もうそんなエネルギーが自分に残っている感覚が無い。この歌を語るには、私は、力量不足であるばかりか、そもそも本来持つべき「自分の気持ちを表現し切れないもどかしさ」すら持ち切れない。スケールが大きすぎるのだこの歌は。

だが、「語る資格が無くとも語る」と宣言してここに居るので、足掻いてみよう。全く、あるべき語りに辿り着ける予感がしない。誰か他に、もっと若い適任が居てくれればよいのだが。居ないものか。

もう出来上がった歌。その解説をする事すら難易度が高過ぎて諦めなくてはならないほどなのに、ヒカルはこの歌を何も無いところからほぼ一人で作り上げ歌い切ったのだ。信じられない、という言葉にすら実感がこもらない。最早遠い星での出来事のようだ。


この歌の歌詞は、それだけで感傷的で、感情的で、構成があり、構築性があり、含蓄と機知があり、遣る瀬無さともどかしさがあり、美しさと禍々しさが同居し、野心に満ち、諦観を塗り越え、深みと広がりをかけあわせ、切なく、愛おしく、切り刻むように刺々としていて、泥のように優しい。恨みと怒りと自傷を乗り越え取り込み、美に涙し、美に包まれ美を包み、それでも零れる想いの数々に音で出来た生命(いのち)を与える。それは慈雨であり、のた打つ雨であり、ぬかるみに口づけして拭い去る悲しみの結晶だ。即ちそれは、荒々しき言葉の宝石である。

挑戦的な目線が、どこまでいっても見つからない。確実にその視線が私の背中に突き刺さり続けているのに。振り返っても闇しか見えない。

エヴァンゲリオンを「出汁」だとヒカルは言った。ならばこの歌は「泥」である。真実に生々しく、水と土で出来ていて、生命が蠢き、毒となって沼となって生命を外と内から奪っていく。止まない真夏の通り雨が形作る水溜まりは底無しの泥、泥、泥。沼の底の沼である。そこに生命は還りまた生命が生まれてくる。恋の真実と向き合った、えぐるような傑作だ。


これだけ書いても、遠くて大きくてまるで掴めない。悲しむ為の涙すら出て来ない。雨でも降って、私の涙の代わりをしてくれないかな。笑うしか、もう、ないじゃないのさ。