無意識日記々

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『サヨナラ』と『さよなら』

「さようなら」は漢字では「左様なら」と書く。現代語でいえば「それでは」という意味なので「それでは皆さんさようなら」は重複表現になるんだが率直に言って違和感やだぶつき感がない。本来の意味を離れた別れの挨拶の言葉になっている。

真夏の通り雨』と『花束を君に』の歌詞には、『雨』のように共通して歌われている語があるが、なかでも鮮烈なのは『サヨナラ』と『さよなら』だろう。

特設サイトに掲載された歌詞では、『真夏の通り雨』の方はカタカナで『サヨナラ』、『花束を君に』ではひらがなで『さよなら』と表記されている。歌詞なので、本来は音声のみの存在であり表記の違いで作品の質を評価するのは筋が違っているが、一方で、ここにヒカルのこだわりが反映されていないとはとても思えない。『FINAL DISTANCE』の表記をど忘れした事もある人ですけどね。

では、カタカナとひらがなでどういった違いがあるか。

真夏の通り雨』では次の箇所で『サヨナラ』が出てくる。

『勝てぬ戦に息切らし
 あなたに身を焦がした日々
 忘れちゃったら私じゃなくなる
 教えて 正しいサヨナラの仕方を』

想い人に対する思い出を忘れたくなくて、でもずっと囚われたままでいる訳にもいかなくて、という二律背反の中で、どうにか踏ん切りをつけたいんだけどどうにもならない、という葛藤を歌ったパート。つまりここでは「左様なら」をどう言えばいいかわからない、「左様ならって何?」という状態。言葉に実感が湧いていない。言葉の意味が把握できず言語が音節の塊にしかならないような時、音声である事を強調する為にカタカナで書くケースがある。外国人がカタコトの日本語を喋るとき「アリガトウゴザイマス!」などとカタカナで書くが、これは言葉にこなれていない様子を表す。実際、今も「片言」を「カタコト」とカタカナ表記したばかりだ。

真夏の通り雨』ではどうやって『左様なら』すればいいかわからない。翻って、『花束を君に』ではこうなる。

『世界中が雨の日も
 君の笑顔が僕の太陽だったよ
 今は伝わらなくても
 真実には変わりないさ
 抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に』

こちらではひらがなの『さようなら』になっている。ただの音声に瓦解した『サヨナラ』とは違い、実感と意味の籠もった『さよなら』に変化した訳だ。…変化? そう、この2曲は繋がっている。そして、順序は『真夏の通り雨』から『花束を君に』へ、だ。『教えて サヨナラの仕方を』とさまよっていた主人公がやっと見つけた『さよならの仕方』が『抱きしめてよ、たった一度』だったのである。つまり、この願いは永遠に叶わない。さよならの仕方を知っても、実際にさよなら出来る訳ではない。『花束を君に』はそういう歌なのだ。



全くの余談になるが、私が初めて『花束を君に』の該当箇所を聴いた時、ここの歌詞を『抱きしめてよ たった一度のさよならの前に』とソラミミした。“の”が一つ余計である。そう聞こえた為、嗚呼、確かに永遠の別れはたった一度しか訪れないよね、と一旦は納得したのだが掲載歌詞に”の“はなかった。"の"が入っていてもなかなかいい歌詞だと思うが、今回解説した、2曲に跨るストーリーに思いを馳せるなら、やはり“の”は無い方がいいのよね。『花束を君に』と『真夏の通り雨』の2曲は、やはり繋げて聴くのが醍醐味なのである。