前回からの続き。
ヒカルさんが昔に較べてずいぶん「欲しがりさん」「せがみっ子」になったなぁ、という話。ほんまにそうなんかな?と。
確かに、『花束を君に』でどストレートに『抱きしめてよ たった一度 さよならの前に』と歌いきったので、だからこその今回の『大空で抱きしめて』なんですけどね。『真夏の通り雨』ではカタカナの『サヨナラ』でまだ別れを現実として受け止めきれていなかったのに『花束を君に』ではひらがなの『さよなら』で現実を受け入れつつある事を…ってこの話もう昔にしたヤツだな。話を戻して。
この「せがんでばかり」のヒカルさんを、少し昔のイメージに近付ける方法がある、というのが今回の主題。
今述べた通り、『花束を君に』の記憶がまだ新しいうちに今回の新曲『大空で抱きしめて』は配信された。タイトルをみて花束の『抱きしめてよ』の残像を持つ人の多くが『大空で抱きしめて(ほしい)』と脳内で補完した筈だ。いや「くれ」でも「ちょうだい」でも何でもいいんだけどね。抱きしめてほしい、抱きしめてくれ、抱きしめてちょうだい。
歌詞の他の部分も同様だ。「抱きしめて(ほしい)」「キスをして(ちょうだい)」「迎えに来て(くれ)」みたいな感じで皆補助用言(ググッてみると、形式動詞とか何とか、色々呼び名があるんだねぇ)を脳内補完して読むだろう。勿論、間違っちゃいない。それで歌詞の解釈としてはOKだ。そこを敢えて、である。
やめてみよう。補助用言を補完するのを。
つまり、『抱きしめて』の後には何も省略されていないと解釈するのである。見たまんまだ。
となると語尾の『て』は、ただの接続助詞になる。どういう事かというと、「野菜を切って、炒めて、煮込んで」という時の「て」のように、順序や並列を示すだけのものだと捉えるのだ。
「もし今度の日曜日に遊園地に行けたら? えぇっとね〜、まずメリーゴーランドに乗って〜、観覧車のいちばん高いところで写真を撮って〜、ジェットコースターで絶叫して〜、美味しいご飯を食べて帰る!」という時の「て〜」だ。ただ単に文章を繋げる為だけの、ね。
そうするとどうなるか。
主語が入れ替わったりするのだ。
見てみよう。
『雲の中 飛んでいけたら
大空で抱きしめて(ほしい)』
だとしたら主語は
私が、飛んでいけたら
あなたに、抱きしめてほしい
という風になる。
しかし、(ほしい)を補完しないと
私がもし、飛んでいけたら
あなたを、抱きしめて
という解釈も可能になるのだ。抱きしめにかかる主語があなたや君から私や僕に変わるのである。
…ただの稚拙なレトリックだよね? うん、私もそう思う。しかし、この思考実験を通じて見えてくるものも確かにあるのだ。次回はその話。