毎日々々「とと姉ちゃん」で『花束を君に』を聴いていると、歌の方を聴くだけでどうしてもドラマの方を思い出してしまって…という現象がきっと起こるだろうと勝手に予想していたんだけど、こうやって70回目を迎えても、私はそんな風になっていない。皆さんはどうだろうか。私は、『花束を君に』の音だけを聴いている時に、あんまり「とと姉ちゃん」を思い出さない。
いい事なのかどうなのか。ようわからん。逆はちょっとある。「とと姉ちゃん」の事を考えていると、いつのまにか『花束を君に』のメロディーを口遊んでいる、というのはね。
これはやっぱり、私の中で、歌の存在感の方が大きいからだろうな。単純な話。毎日、アバン終わりに入ってくる歌の包容力。どんな展開であっても泰然自若。変えてないから当たり前なんだが、「そうそう、それでいいのよ」と毎回包み込んで受け容れてくれるような、あの感覚な。それはもう、この歌独特のものだろう。
なので、もっと違った場面でも観てみたい、というのも本音だ。極端な話、どんな場面なら似合わないんだろうかこの歌は。吉本新喜劇でも笑点でも深夜1時の臨時ニュースでさえもアジャストしてきそうだ。いや、流石に緊急地震速報の後とかは無理かな。しかし、冠婚葬祭どの場面でも大丈夫という感覚は強い。悲しくても嬉しくても響く。こんな歌は珍しい。
動画サイトには、ファンの皆さんによって、『花束を君に』の様々なバージョンが沢山アップロードされている。私が見知ったものだけでも、ギターの弾き語り、ピアノインスト、ボーカロイド、合唱と本当に幅広い。これが今という時代なんだなぁと実感すると共に、様々な場所で様々な人が様々なアプローチで歌っても、こう、一本芯が通ったように、どれもちゃんと『花束を君に』なのだ。曲の力。
そして、しかし、それでもやはり、ヒカルのように歌えている人は誰も居ない。上手い下手以前に、そもそもの歌のイメージが違う気がする。皆が側面から、自分の目に見えるように歌っている感じがするのに対して、ヒカルは、この曲を、全方位から眺めて、総ての方向から包み込んで声を出している。そう表現せざるを得ない程、特異且つ最も真正面からのアプローチである。
その為、『花束を君に』のオリジナル・トラックは包容力の自乗となっている。もっと言えば、曲と光がお互いを包み込み合っている。「描く手を描く手」のようにトポロジカルにイメージするのは難しいが、お互いがお互いを受け容れ合っているといえば、少しは通じるかもしれない。ドライに言っても、お互いがお互いの理解者である。
そんな風な見方で作曲を語るとしたら、ヒカルの最高傑作は結局『くまちゃん』なんだろうなという結論になる。ヒカル自身は『ぼくはくま』を最高傑作と言い(言ったのはもう10年も前だから今でもそう思ってるだなんて強弁はしない)、実際それは曲なんだし『くまちゃん』は曲じゃないんだからそれでいいのだが、お互いを受け容れ合うその非位相幾何学的な構図の達成ぶりという点に関しては、『ヒカルとくまちゃん』の2人(1人と1匹なのだろうか)の関係性はいちばん美しく、また不可能である。そう考えると、人生経験を深く積んだ33歳の宇多田ヒカルが『花束を君に』を歌い作る事に何の不自然も無い。そこまで卓越した歌なのだ。こんな歌を主題歌にもった「とと姉ちゃん」は、本当に幸せ者だわ…。