無意識日記々

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二重目(フタエメ)の直感に至る迄の話

ヒカルの歌声は変わったか変わっていないか。これは、『花束を君に』だけを聴いていると議題に上がるかもしれないが、『真夏の通り雨』を聴けば問題にはならない。こちらは、先週指摘した通り“正調宇多田ヒカル”なメロディーと歌唱だからだ。寧ろ、今までで最も“変わっていない”事をアピールした楽曲であるともいえ、その意味でいえば“かなりらしくない”楽曲かもしれない。

正調、と言ってもあクマで『誰かの願いが叶うころ』以降の、即ち『Single Collection Vol.1』より後のヒカルの芸風であって、ヒカルのイメージがSCv1より前で止まっている人にとっては「随分歌声が変わったな」と感じるかもしれない。12年前より前と較べて変わった変わってないって同窓会みたいだが。

誰かの願いが叶うころ』以降のヒカル(&UtaDA)の歌唱は驚きの連続だった。爽やかでアメリカンな『Easy Breezy』、本格派ブラック・ミュージックの『Wonder 'Bout』、『Be My Last』の『かあさんどうして』の荒々しさ、3つのバージョンに渡る『Passion』の幻想美と叙情性の歌い分け、『海路』のスケール感、最早誰かわからない『ぼくはくま』、出だしの低音にのけぞった『Flavor Of Life』、そこまで仰々しくダイナミックに歌うのかという『Apple And Cinnamon』等々、枚挙に暇がない。その度に我々はヒカルの歌唱力の幅広さにおののいてきた。かと思えば『Prisoner Of Love』で十八番のエモーショナルな歌唱を聴かせてくれたりで、コーナーのクセ球を待ち始めたらド真ん中に豪速球を投げ込んでくるなどその投げ分けぶりに翻弄もされてきた。

そんな、長年ずっと追い掛けてきたファンからすれば、それまでのどの歌より更に深みを増した『桜流し』の歌唱から『花束を君に』のたおやかな歌いっぷりには、容易にとまではいかないまでも抵抗なく延長線を引ける筈だ。勿論、引いてみた私も「ここまで右肩上がりとは本当に天井知らずだな」と怖くなったクチではあるが。

花束を君に』の感想で多いのは、「母親になったから」という理由である。それは勿論間違いでも何でもなく、人生に数えるほどしかないビッグイベントを経て生活が激変したのをこの2年味わってきたのだからその影響が歌に出たとしても何ら不思議ではない。「当然だ」と付け加えよう。

でもヒカルの歌声に「母性」が宿り始めたと話題になったのは『Beautiful World』の頃からだ。これは、くまちゃんと暮らし始めた影響とも解釈できたし、「エヴァンゲリオン」が母親を第一のテーマにしている所からも解釈できた。その時点ではまだ雰囲気程度だったが、それが『Stay Gold』に至って明確に提示される事になる。この曲は正確にいえば「お姉さん属性」の曲なのだが、その後に8歳下の男の子をひっつかまえてこどもこさえるんだから予言的な立ち位置の曲ともいえる。「姉さん女房」→「肝っ玉母さん」の流れである。

更にこの流れは『嵐の女神』でひとつの結節点を迎える。『お母さんに会いたい』と言うから娘としての切実な歌かと思いきや、そこだけにとどまらず『どうして私は待ってばかりいたんだろう』『私を迎えに行こう おかえりなさい』と自らが母性を引き受ける決意まで歌っている。

母を亡くすより何年も前の時点で、自らの思慕の究極である母への思いを、自らのうちに生まれさせ始めていたのだ。だから、私はヒカルが母を喪っても自分を見失わず力強く生きていけると信じていた。最終的には、だが。そして今、本当に母になっている。


母性とは、これだけの(といっても今記したのは概略に過ぎないが)物語を背景にした上でヒカルの歌に宿っているのだ。昨年こどもが生まれたから歌がお母さんぽくなりました、で済ませてはいけ…まぁそれはそれでいっか。

過去はまぁ関係ないよ。歌は今、心に響かせるもの。ヒカルの歌から溢れるような母性愛を感じる。ええこっちゃ。問題なし。嬉しいことだ。

しかし、だから「変わった」というのは違う訳だ。今まで通り、曲に最適な歌唱を披露しているに過ぎない。ヒカルは自らの歌唱技術をひけらかす意志は歌手としてまっっったく無く、ひたすらに曲にとってベストなアプローチを心掛けてきた。今回は更にそれが徹底されたに過ぎない。そして、より徹底できるだけの歌唱技術の上乗せを3年分きっちりみせてくれている。そのレベルにおいて紛れもなくこの歌は今まで通りに宇多田ヒカルらしい曲だ。もうね、唸るしかないよ。ここまで真心って突き通せるもんなんだね。


だからこそ今私は『真夏の通り雨』をどう位置づけたらいいのか、ほんのちょっぴり逡巡している。このまま15日まで迷っておくのもひとつの手ではあるかなぁ。二重目(ふたえめ)の直感が、「どうやらこれでいいっぽい」と言っているので、多分良い解釈が存在するのだろう。またもや真ん中直球に意表をつかれた可能性も高い。が、宇多田ヒカルがそれだけで済む訳がないだろうというのが、僕らの17年に亘る経験から導き出される答だよね。