「チャック・ベリーはどうしようもない男だからいいんだ」という話はここで飽きる程してきた。アーティストとして人間の表現の限界に挑戦する、という生き方は立派だし尊敬するけれど、ロックンロールってそんなに偉いもんじゃないよね、というのが私の根底にある。だから、いい。
イチローがピート・ローズを皮肉って「記録を破るならデレク・ジーターのような人格者がいい」と言っていた。野球道を究めんとする求道者らしい物言いだ。スポーツの事に関しては深入りする気はないが、球を投げて打って捕って走ってという遊びが競技になりエンターテインメントになりやがてアートに…というのは、それでいいの?という気がしなくもない。昭和生まれとしては、仕事帰りの飲んだくれたおっさんが野次を飛ばしながら楽しむのがプロ野球、というイメージもあったりするのでの。まぁそれは他所の話だからいいや。
人間、偉くなると「先生」と呼ばれる。教授や教師にはじまり、医者や弁護士や政治家などなど。それはそれでいいとして、ロック・ミュージシャンで、レッスンでもないのに「先生」って呼ばれたら何だかこそばゆそう。嬉しいかなぁ。
我らが(って何様)宇多田のヒカルさんは、そういう、「先生」と呼ばれそうな権威めいたものからは随分と遠い所に居るキャラクターを貫いてきている。お蔭でBBAとか姐さんとか呼ばれてきていた。で、今回オフィシャルが打ち出してきたのが「パイセン」である。年齢を重ねてきて随分と年下のファンも増え、敬われるポジションもしっくり来るようになってきた。だからと言ってそれこそ「先生」みたいな立ち位置でファンの相談に乗るのはちょっと違う。じゃあ「先輩」かなという事だろうが、見切り発車なんだろう、キャラクター作りが間に合っていないよね。まぁなんでもいいんだが。
「私は自分が最も忌み嫌っていた権威に、今度は自分がなってしまった」と嘆いたのはアルバート・アインシュタインだが、これからパイセンはますます尊敬されている。井上陽水のような親子程も歳の離れた大先輩からも敬われてしまう立場だから、全員素になってしまうと頭を下げ続けるしかないのだが、ヒカルはそれを望んでいない。アインシュタインのように嘆く日が来ないように来ないように、振る舞っている。
実際、ポップ・ミュージシャンであるならば権威になるのは願い下げだ。次にリリースする曲が売れなかった時に周囲を含めて一緒に悔しがれなくなったらもうそれは死である。敢えて売れそうにない曲を出した場合は別だが、ずっとそれを続けてたらもうポップ・ミュージシャンじゃあないので、いつかどこかで売れて欲しいと願う曲を作ってどこかで勝負しないといけない。まぁ、音楽家はいつでもどこでも勝負に勝たなければいけないがね。自分自身を含め、世界のどこかに居る誰か具体的なリスナー1人以上に納得して貰わないといけない訳で。ポップ・ミュージシャンはその相手が「なんとなく不特定多数」なんだな。
「次の曲を売る」という時に権威は邪魔である。酷い時はまともに音を聴いて貰えない。周りはイエスマンばかりでまともに聴いてくれないし、遠くの方の人は「宇多田? まだやってるんだね。『First Love』は素晴らしいよね。」と言ったきり興味を持ってくれない。そうなったら多分もう周りからは「先生」って呼ばれてるだろうね。
そこらへんのヒカルの美学を訊いてみたいものだ。惨めな姿になっても相変わらず歌い続けるか、程良い所で身を引いて皆の美しい思い出になるか。惜しまれる中引退するか。相変わらず、きっと先の事は考え(るようにはし)ていないのだろうけれど、チャック・ベリーみたいに歌は歌えずギターもまともに弾けない状態になってもやり続けてると、喜んで観に来てくれる人が居るという事実も世界にはまたあるという事は言い添えておきたい。勿論、ベストは80歳90歳になっても現役で居られる事だが…いやそれは我々にとってのベスト、かな。肉体が衰えて歌えなくはなっても、作詞作曲はできるかもしれないもんね。それを今から期待するのはちと酷に過ぎますけどなっ!(笑)