無意識日記々

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『ともだち』の歌

ニューアルバムに、果たして、『花束を君に』よりわかりやすく、親しみやすく、キャッチーで覚えやすい曲があるかどうか。そこがひとつアルバム全体の作風を探る鍵となる。

もし無いのであれば、ヒカルちん、思い切っている。売れ線の曲がもう無いんだから。しかし、ゆみちん、あれ、違ったっけ(笑)、椎名林檎姐様が泣きついてきた「日本のポップ・ミュージックの不在と留守」を埋める帰還・帰宅には、ならない事になる。期待を裏切ったと。いや、別に応える義務も無いが。

私はその作風でも落胆しないからほくそ笑んでいられる。「たまにはこういう作風もいいじゃないか」と嘯く事請け合いである。いやらしい。ただ、いろんな友達が居る。わかりやすい作風がいい、と言う人たちも居る。彼らが喜ぶ顔を見たい、ともまた思う。それを押し出せばジレンマだ。抽出しみたいに出したり仕舞ったり出来るならジレンマとは呼べないからエセ・ジレンマと呼ぶべきか。今カタカナで書いたけどちゃんと漢字あるからね、「似非」っていう。まるでフランス語由来の英単語の接頭辞みたいなフリをしやがって。それはいい。


ならば『ともだち』って、そういう歌がいいのに。ルフィはクルー(船員達)を「仲間」と呼ぶ一方、同盟相手を「ともだち」と言う。その距離感。困っていたら助ける。悲しんでいれば悲しいし、喜んでいれば嬉しい。イチローがいつも言う、「自分が記録を達成した時に、周りの人達が喜んでくれる事に何よりも価値がある」と。『ともだち』とは、Hikkiにとって「ともだち」とは何なので、あろうか。『ともだち』をともだちに聴かせた時、喜んで貰えたんだろうか、それとも、これから聴かせて、喜んで貰えるだろうか。

いつものように、複数のレイヤー(層)を想定している。詞が、ともだちについて、歌っている。わかりやすい。異なるレベルでみた時、曲が、ともだち向けになっている、だから『ともだち』という曲。また違うレベル、この曲が、ヒカルのともだちである可能性。詞も、具体的な誰かを思い浮かべたり、居た事もない架空や理想のともだちについて歌っていたり、或いは、ともだちが居ない、居なくなった事について歌われていたり。種々、ありえる。

ただひとつだけ言えるのは、この歌は、ともだちが誰なのか、誰でありえるのか、ともだちとは何なのかを、知っているという事だ。もし、彼女が「ともだち」とは何なのかを知らないとしたら、『真夏の通り雨』の『サヨナラ』のように、カタカナで「トモダチ」と書かれねばならなかっただろう。ともだちとは何なのかを見極める歌ではない、知っていて、得たり探したり捜したり失ったり生んだり笑ったり泣いたりする、そういう歌に、なっている、そう予想する。

化け物のような音楽力をみせるヒカルだが、ともだちの前では1人の女性に過ぎない。道端で会っても、だからどうしたという程度でしかない。ホントかよ。その普通っぽさみたいなものが曲に乗り移っていれば、『ともだち』は、わかりやすくて、親しみやすくて、キャッチーで覚えやすい曲に、なっているだろう。そこまで、というか、そこを考え感じ取っていたならば。

ヒカルが具体的に考えたともだちが私のように「そういう(とらえづらい)作風も、悪くない」と宣うややマニアな人だったりしたら、残念でした。しかしヒカルは優しいので、どこかで、ゆみちんが感涙に咽ぶような歌を歌う。それがいつどこでなのかはわからないが、ゆみちんはしこたま甘える準備をしておいた方がいい。貴方こそ、紛れもないHikkiのいいおともだち、なんでしょうに?