無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

うむ

前も引用したけれど、『自分が進むべき道は誰にも教えてもらえないけれど、自分を遮るものは何もないんだという意識』という言葉はやたらに力強い。それはつまり今まで以上に自らの責任でアルバムを制作したという事だろう。『私自身、自分のプロジェクトのリーダーという立場に進んで納まったと言える制作となりました。』と言い切っている所からも、今回もプロデューサーとして名前がクレジットされている可能性は100%だ。ブックレットの誤植を含めなければだが。

歌手としての実力はかなり認知されている。作詞家としてもそれなりに認識されている。作曲家としてもそこそこ尊敬されている。しかし、ヒカルの事をプロデューサーとしてみている人となると極端に少ないのではないか。

この原因は明らかで、ヒカルがヒカル以外をプロデュースした事が無いからだ。確かにプロデューサーという仕事はわかりにくいが、小室哲哉つんく(当時)や秋元康の活躍のお陰で「そういう黒幕っぽい人たちが居るんだ」という知識の共有は為された。ヒカルも本来なら、これだけの大ヒット作を次々生み出したプロデューサーとして、小室哲哉まではいかない(売った枚数の総合ではとても敵わない)までも、小林武史織田哲郎くらいの認知度を貰っていてもおかしくはない。しかし、現状はそうなっていない。残念がる気力もわかないくらいに、話題に上らない。

今回はその手腕を、少しだが表面的にわかりやすく出してきてくれている気がする。アルバムの曲順を初めて(っていう情報初出じゃないかもしかして)全部自分で決め、作品を「母に捧げる」と断言し、フォトセッションの人選まで自ら手配した、となると何と言ったらいいか、出たてのアイドルにつきっきりのおじさまプロデューサーか、或いは全く逆に総てがDIYのインディーズ作品かという話だ。そのプロデューサーとしてのヒカルの手腕の程を、今回は皆さんの目と耳で確かめて欲しい。


私的に踏み込んで言わせて貰えれば、今回のアルバムのコンセプトはまさに"produce"そのものなのではないか。プロデュース、制作・生産すること。もっと言ってしまえば生む事そのものだ。ヒカルが動かなければ(復帰しなければ)この作品は生まれてくる事は無かった。母はまさに自分を生んでくれた存在だ。そして勿論、ヒカル自身が第1子を生んだ後(最中)に生まれた作品でもある。生んで貰って生まれて貰って自らが生んで。そろそろゲシュタルト崩壊をしてきたが、プロデューサーとはそういう、何もないところから何かを生む、無から有を作り出す、「有無」と「生む」を司る存在だ。そういう意味で、今回のヒカルほどプロデューサー・クレジットが似合う存在はそうそう居ないだろうと付言できる。恐らく、有無を言わさなぬ名作に仕上がっている筈だ。「うぅむ…」と悩んでしまうファンも、出てくるかもしれないけれどもね…。