無意識日記々

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訛の話

『俺の彼女』の、今までのヒカルの曲の中でも最も特異な点は、歌の台詞を誰もヒカルの本音だと思わない事にある。今までだって曲の中で何らかの"役割を演じる"事はあったが、それでもそこにはどこかヒカルの本音みたいなものが潜んでいるように皆なんとなくでも思っていたのではなかろうか。

それが『俺の彼女』ではそう思われない。何故か。まず第一に、見ての通りだ、一人称が『俺』である。今までに聞かれなかった、非常に男らしい呼称だ。この一言から曲が始まるのは大きい。

それがいちばん大きな理由である事は間違いないと言ってみていいとも思うが、しかし、それだけではない。例えば、ヒカルは歌の中で『僕』という一人称も使う。その場合でも聴き手は、その歌の台詞をヒカルの本音の一部として受け容れる事に抵抗が無い。その代表格が、『日曜の朝』の『彼氏だとか彼女だとか呼び合わない方が僕は好きだ』の一節である。これを聴いたかなりの人は、ヒカルがそう思っていると受け止めている。これは結構影響力が高い。

何故なら、長いファンはこの一節があるから、『俺の彼女』というタイトルを見ただけで「ヒカルちゃん彼氏彼女って呼び方好きじゃないって言ってたのに」という受け取り方をしたのだ。既に種は蒔かれていた、ともいえる。

特異な一人称『俺』に加えてヒカルが好きじゃない『彼女』という呼び方。これらが複合的に重なり合って、聴き手はこの曲でヒカルが"役を演じ"ている事をすんなり受け容れる。

しかし、そういった要素に乗っかって、最終的にトドメを刺したのが「歌い方」であるように思われる。あの、いうなれば「べらんめえ口調」である。無頼漢風とも言えるが、あの言い方歌い方によって聴き手は即座に「あ、ヒカルちゃん演技してる」と直感的に思うのだ。

これは、新しい歌唱法の成果の一つであるように思われる。ヒカルもRAD対談で吐露していたが、『Fantome』以前のヒカルの歌唱を今耳にすると、確かに雑に聞こえるのだ、歌い方が。特に語尾については、「あ、意識して歌ってないな」と感じ取れるまでに。今まで全くそんな風に聞こえた事がなかったので余りにも不思議だが、私もヒカルも示し合わせたように「雑」と言い切り捨てているので、事実である確度はかなり高かろう。

これ、裏を返せば、今のヒカルなら非常に高い精度で語尾の歌い方を工夫できるようになったという事だ。技術とは意識である。存在に気がつきさえすれば、それを何とかしようという気が現れる。変化とは、それもまた意識なのだ。語尾を意識的にコントロールできるようになったヒカルは、この『俺の彼女』で発声から何から、非常に技巧的に"演じ"ながら歌う手段を手に入れたのだ。

これは大変な成長なのだが…ってちょっと長くなったな。この続きはまた次回のお楽しみという事でひとつ。