無意識日記々

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強ち強がりを強いられてる訳でも

日本語の場合一人称すら社会的関係性に影響される、という話、『俺』という言葉に集約されている。つまるところ『俺の彼女』の『俺』は精一杯強がる事を強いられている。ややこしく言えば、この歌自体が『俺』という一人称の本質を描いた詞を携えているという見方も、いや、見方ができる。更に踏み込めば『俺の彼女』は『俺』そのものだ。

尊大さにその本質を認めるならば、一人称を敬称で彩るのも必然なるかな。「俺様」という呼称は「僕様」や「私様」の必然性(の無さ)を圧倒する。なお残念ながらここに「ぼへ様」は入らない。

そういう「俺(様)」にとっての『彼女』であるから、如何に自分を引き立ててくれるかが重要となる。極めれば「あなた様」と呼んでくれる位の淑女が求められる。現実には「俺様」は自虐、「あなた様」は皮肉にしか使えない。歌詞にも、出てこない。

冒頭、イントロもなしでいきなり『俺の彼女はそこそこ美人』から歌は入る。もう既にこの時点で世界観が決まっている。何がどう見えているか。日本語ならではの『俺』『彼女』『そこそこ』。まず容姿の話から切り出しているのもポイントが高い。この『そこそこ』の卑屈さよ。実際にどう、というよりは謙遜と自尊心のバランスが如何にも日本語人らしい。

「とびきり美人」とかではいけないのだ。余りに美しすぎると、俺と彼女が並んだ時に彼女の方が主役になってしまう。レディーファーストという言い訳を育めた文化圏なら手放しで称える事も出来ようが、そうでない国では「主人の後を三歩下がって」が求められる。「器量はいいが、俺様を食う訳でもない」という"俺様の彼女"に求められる理想像が『そこそこ美人』には込められている。

音程もいい『美人』で跳ね上がる。ヒカルは元々よくやる手だが、音程の上がる場面に「ん」の音を持ってくるのは冒険だ。ここの跳ね上がりで、聴き手は「なんて鼻につく言い方だ」と『俺』に対して鼻持ちならない感情を抱く。「そこそこ」と言いながら『彼女』が美人である事を自慢していて、いや、正確には、器量のいい女性をモノにした「俺様」の度量を自慢していて鼻につく。そう強く感じさせる効果がこの『びじん』での音程の上がり方に込められている。「うわ、なんかイヤミなヤツが登場したな」と一瞬で思わせる。歌を全部聴き終わっている人なら御存知の通り、勿論それはフリ、伏線として機能している訳だが。

イントロなしの10秒足らずで既にヒカルはこうやってリスナーに「どう思って貰いたいか」を簡潔に提示し、実際にそう思って貰う事に成功している。出だしで「お」と思った瞬間に既にもう我々は彼女のペースにノせられてるのだ。もう我々は否応無しにこの歌に惹き付けられている。