無意識日記々

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気が飢餓団

需要と供給の一致は難しい。松本人志が昔「普段飢えてる子でも出された食事が多すぎたら残すっちゅうねん」みたいな事を言っていた気がするが、何事にも満腹というものがあり、一時的ではあれ「もう結構」というのは何にせよ有り得る。

人間活動期間最中はヒカルの情報が少なくて飢えていたが、昨年復活してからは「消化しきれない」情報が幾つもある。ずっと欲しい欲しいと言っていたのに何を贅沢な、と言われるかもしれないが一度に消化できる量には限りがあるのだ。

先日も「なんだよスペシャアプリってよ」と思ってる間にアワードが発表になってコメントが会場で流れテレビでもオンエアされ…正直「ついていけてねー」と思った。もっと貪欲になりなはれやというのもまた真実だが、いきなりだと頭が追いつかないだけなんですよ。

「情報の厳選」が今の時代に重要なのは「けものフレンズ」のヒットからもわかるが、我々のこども時代とは違い、情報は水道水同様「常に溢れているもの」だ。その中の何を選べば満足出来るのかを自分で探し出すのも大変なので誰か教えてくれ、というのが「現代の本音」である。

その意味で「マーケティング」の意味合いが情報の世界では変わってきている。よく「飢餓感を煽る」手法が話題になるが、今はこっちで得られなければすぐよそに移るだけだ。そこらへんを梶さんはよぉく心得ていて、巷に溢れる「!」を配るより「?」を仕掛ける企みに変えてきている。飢餓感を煽るというより寧ろ「新しい(空っぽの)胃袋を作る」のが今の時代のマーケティングである。煽るのではなく作る。もっといえば"罠を仕掛ける"。煽るのは空腹感ではなく能動性である。

知の基本は飢餓の消失であり且つ飢餓の創出である。1を知りたいと思い1を得たら同時に10の知らないを得る。その10を知ったらそれぞれの1がまた新しい10の知らないを連れてきて…と連鎖に終わりがない。平たくいえばそれが創造であり宇宙だ。途切れるかどうかは誰もわからないが、誰もそれが明日明後日や数億年後に途切れるとも思っていない。知の空腹は空腹をもって埋められ続ける。

しかし、音楽が与えるのは本来充足であり満足であり満腹である。どんなに素晴らしいコンサートも24時間聴かされ続けたら飽きる。知的でないと言われればそれまでだし、またインターバルをあければ欲しくもなるのだが取り敢えずその日は満足をする。その為が音楽である。マーケティング的には「いつまで経っても歌が聴けない」というのが正解になるが勿論これは誤謬であって、我々はどこかで間違っている。その間違いを埋める方法についてはまた次回のお楽しみに…して大丈夫かお前?(笑)