無意識日記々

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Say Farewell to IT Forevermore

いよいよ今夜『Forevermore』が解禁になる。待ち草臥れた、と言うと語弊があるだろうか。待ち遠しかったのは勿論だがそれ以上に「宇多田ヒカルの新曲を聴く恐怖』が大きい。

普通、好きなアーティストの新曲を迎える時の心配や不安といえば「つまらなかったらどうしよう」とか「自分に合わなかったら嫌だな」とかそんな風なのだが、ヒカルの場合そんな生易しいものではなく、「頭と心を激しく揺り動かされる恐怖」が中心にくる。つまらないとか合う合わない以前に音楽が存在としてデカ過ぎる。

『大空で抱きしめて』だって、こちらは最初「TVCM曲だし手堅くPopにまとめてくるだろう」とタカを括っていたのにそのタカをほどいて天上に向かって強引に引っ張られた。「痛てててててて」なんて新曲を聴いた感想にゃならないだろ普通。混乱と当惑、そして恐怖。そういった感情を与えておきながら気がついたら「雲の中〜」と鼻歌を歌っていてCMソングとしての機能も言う事なしだ。ただひたすら翻弄されている。

今夜また一曲解禁されて同じ事を繰り返すのかと思うと憂鬱だ。ブルーである。しかしこれは蒼い炎なのかもしれない。普通は好きなアーティストの新曲が出るとなるとファンは盛り上がる。情熱の紅い炎で燃え上がる。しかし、現実には紅い炎より蒼い炎の方が遥かに温度が高い。我々は熱量が上がり過ぎていて"ブルー"になっているのかもしれない。

そんなレトリックは兎も角、これでまた"脳が切り替わる"のは避けられない。『大空で抱きしめて』がTVでCMソングとして違和感なく機能しているのと同様、『Forevermore』もドラマのエンディング・テーマとして何の違和感もなく機能している。狙いが古典的過ぎて、「本当にこんなにベタでいいのか」と疑念が湧いてくるくらいに。そう、もう既に罠に嵌められているのだこれはきっと。

かと言ってじゃあフルコーラス全編聴いたら何が変わるのかって、聴く前は一切わからない。リアルタイムとはこういう事だ。アルバムなら兎も角、シングルたった一曲でここまで身構えさせるのだから、嗚呼、アルバムリリースの頃には私"心の廃人"になってやしないか心配である。心が灰燼(かいじん)に帰しているかもわからない。ヒカルの歌は精神的な兵器かもしれない。心に踏み込んできて抑圧し蹂躙し陵辱する。常にクォリティーが高すぎて安心すらままならない。当たり前過ぎて。異常事態、だな。

まぁいいさ。歌なんて、なんでもない人にはなんでもないないのだから。聴いて「ふーん」で終わらせられる人が世の中99.9999%だろう。それでなんら構わない。歴史があるから、制作の苦悩をトレースでき(た気にさせられてしまって)るから、こうやって煩悶しているのだ。ある意味、今夜この宙ぶらりんから解放されるのだと考えれれば、それもまた救済なのかもしれない。尤も、きっと聴いた後は歌詞とサウンドに苛まれ続けるのだけれど。